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ブログの中でよく使ってしまうことば。(逆接と仮説ver.)

ぼくのブログの文章の中でね、ぼく自身が
よく使ってしまう言い回しのことばってえのも、
いくつかあると思っていて、
そのうちのひとつが、
「けれど」系の語句なんだなあ。
つまりはさ、
「でも」とか、「けど」とか、「けれども」とか、
「しかし」とか、「されど」とか、「ですが」とか、
「とは言えども」とか、「そうとは言ってみても」とか、
そういうような「逆接」の言い方を、
ぼくはどうしてもしてしまうのよね。

このことは約20年前、ぼくがブログを始めたころより
じぶんでも思っていたことでして、当時、
「ぼくのブログの文章って『けれど』が多いんだよねー。」
と友人にも話していた記憶がございます。
ちょっと多すぎるから、直そう、とも思いつつ
なかなか直せない、ということはぼくはそういうような
「逆接」の言い方を、文章だけでなくって
普段の考え方でさえも、そういうふうな
頭の動き方をする癖があるんだろう。
それならば、それで
しょうがないのかもしれない。

そしてまた、さらに
そのうちのひとつのことばは、
「かもしれない」系の語句です。

こちらのことばのほうはね、
ブログを始めた当初からと言うよりかはとくに
このごろひんぱんに使っていると思う。

文章を書くことにおいて、物事を
「断定すること」が大切である、
とのように言われているのだとしても、
そういう意味で言うならば、ぼくのブログの文章は
よくない見本なんだろうなあー。
でもね、ぼくは、たとえば
なにかをだれかへ伝えたい、というのが
ブログを書いている主な動機でも無いし、ブログでは
ぼくの中で「考えること」を書こうと思っていて。
そして、なにかを断定すれば
その考えはそこで定まってしまう。

考えが定まるのは、べつに
わるいことじゃあない。

しかし、ほんとうはまだじぶん自身の中で
考え途中の考えを断定したら、それはもう
考え途中では無くなってしまって、
考え終わったものになっちゃうから。
それは、いわば、
じぶん自身にうそをつく、とも言える。

ぼくの文章だってもね、すべてがすべて
「かもしれない」とか、「やもしらない」とか、
「たぶん」とか、「おそらく」とか、「だろう」とか、
「気がする」とか、「と思う」とか、「とも言える」とか、
言っているわけじゃあない。
じぶん自身の中で、これまでに
考え終わった物事は断定しているはずで、
断定できていない物事については、まだ
考え途中の段階で、つまり、仮説なのだ。

ぼくは、この
「仮説」という考え方が好きでして、ぼくが初めて
「仮説」という考え方を意識したのは、
村上春樹さんの長編小説作品『海辺のカフカ』です。
この物語を読みながら、なんだか
「仮説」って、すごいなあ、と思ったんだった。。。

「私はあなたのお父さんのことを存じあげているのかしら?」
 僕は首を振る。「さっきも言ったように、これは仮説です」
 彼女は机に両手をかさねて置く。微笑みはまだ彼女の口もとにかすかに残っている。
「その仮説の中では、私はあなたのお母さんなのね」
「そうです」と僕は言う。「あなたは僕の父と暮らし、僕を産み、それから僕を捨てて出ていった。僕が四つになったばかりの夏に」
「それがあなたの仮説」
 僕はうなずく。
「だからあなたは昨日、私に子どもはいるかって質問したのね」
 僕はうなずく。
「そして私はそれには答えられないって言った。イエスでもノオでもなく」
「そうです」
「だから仮説は仮説としてまだ機能している」
 僕はもう一度うなずく。「機能しています」

村上春樹さん著『海辺のカフカ(下)』新潮文庫、138-139頁

どうすごいのか? ってゆうのは
うまく言えないですが、たとえば、物語で登場する
【だから仮説は仮説としてまだ機能している】
ということばがさ、
なんだか、好きなのよねー。

仮説は、仮説として機能している限り
仮説として存在できるのだ。
と思うやもしらないけれどもぉ〜。

令和6年9月8日