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「教える者」としての立場に立つ限り。

ぼくは現在、パートタイマーで
学習塾講師として勤めているので、
日々、そのお仕事をしてゆくためにも、
「教育」とはなにか? というのは、
じぶんなりに考えているのですが。
子どもの教育について、ぼくは
専門的な勉強を受けていないので、
きちんとしたものはいまだわかってないけれども、
でも、教育に関する書籍を読んだりしながら
ぼくなりの答えを考えようとしている。

そのなかでね、このごろまた
あらためて考えていたのは、
内田樹さんが著書でおっしゃっていた
「ジャック・ラカン」のことばです。

このことばのことについて、
内田さん著『街場の教育論』より、
書籍からの孫引きの引用とはなりますが、
内田さんのご説明と合わせて引用を申しあげます。。。

 教師がひとりの個人として何ものであるか、ということは教育が機能する上で、ほとんど関与しない。問題は教師と子どもたちの「関係」であり、その関係が成立してさえいれば、子どもたちは学ぶべきものを自分で学び、成熟すべき道を自分で歩んでゆく。極端なことを言えば、教壇の上には誰が立っていても構わない。そうではないかと思います。これについてはジャック・ラカンが名言を残しています。

 教えるということは非常に問題の多いことで、私は今教卓のこちら側に立っていますが、この場所に連れてこられると、すくなくとも見掛け上は、誰でも一応それなりの役割は果たせます。(……)無知ゆえに不適格である教授はいたためしがありません。人は知っている者の立場に立たされている間はつねに十分に知っているのです。誰かが教える者としての立場に立つ限り、その人が役に立たないということなど決してありません。
(「教える者への問い」、『自我(下)』、小出浩之他訳、岩波書店、一九九八年、五六頁)

 人は知っている者の立場に立たされている間はつねに十分に知っている。これほど「学び」のダイナミクスをみごとに言い当てている言葉はないだろうと思います。問題は「知っている者の立場に立つ」ということです。私は先ほど「ある種の型」という言葉を使いました。教師には教師の「型」というものがある。その「型」をあやまたず演じていれば、先生が「知っているものの立場」に立っている限りは、子どもたちの「学び」の機会は担保される。

内田樹さん著『街場の教育論』、ミシマ社、2008年、127-128頁

ラカンが言われていたとされることばとは、
教卓の側に立っているあいだは、見かけ上において
誰でも一応、それなりの役割を果たすことができる。
つまり、ある誰かが
「教える者」としての立場に立つ限り、
その人が役に立たないということは決してない。
及び、人は「知っている者」の立場に
立たされているあいだは、
つねに、十分に、知っている。
このことについて、内田先生の仰るには、
教師には、教師という「型」があり、
その型にたがいなく演じるとするならば、
子どもたちの「学び」の機会は在り続ける。

このことばは、内田先生の
この書籍を初めて読んだときにも、
勇気が出たし、なおかつ、今もまた
このブログをしるすために読んでみても、
励まされる思いだなあと存じます。

つまり、どんな先生であったとしても
「教える」という立場に立つ限り、
子どもたちは「学ぶ」ことができる。

それは、たとえ、
ぼくのような人間であったとしても。。。

というふうに考えるときにね、
さらにまたあらためて考えるのは、
昨年12月、映画館で観ました山崎エマさん監督作品
『小学校 〜それは小さな社会〜』のことです。
この映画は、ある公立小学校の先生方及び
児童の方々の日常を映すドキュメンタリーなのですが。
SNSでは、映画の感想、及び
日本の学校教育に関することについて、
賛否両論ありながら、ぼく自身も
ブログで感想をしるしていたけれども。
そのぼくのブログの中では、批判的なことも
しるしていたとも存じあげますが、
でも、あらためて思うのは、
映画『小学校』で登場されていた先生方は、
コロナ下における学校教育において、
葛藤をなされながらも、できうるかぎりのことを
行おうとされていて、そのような、先生方の
葛藤のお姿を垣間見ることができたことこそが、
ものすごい映画体験だったようにも感じられる。

なおかつ、ぼくだってもね、
映画の感想として、ブログでは
全部で七回分しるしているのだから、
ある映画を観てそれだけの分量の感想を書く、
ってゆうのもこれまで無かったとも思うから。
そのような、「教育」について
いろいろ考えることができたことが、
有り難い、と感じております。

そして、内田樹さんの言われていた
ラカンのことばに戻るとするならば、
どのような先生であったとしても
「教える」という立場に立つ限り、
子どもたちは「学ぶ」ことができる、のだから。
映画の中で登場されておられた児童の方々も、
学びながら、成長されていた、
とも思うからこそ、それはそれで
「教育」の機会は確実に担保されていた、
と、ぼくは存じます。

教える者が、
「教える」という立場に立つ限り、
子どもたちは「学ぶ」ことができる。
かつ、人は、
「知っている者」の立場に
立たされているあいだは、
つねに、十分に、知っている。
ということが、誰でも、なのだともすれば、
ぼく自身であっても、
そうである、のだと、ぼくは信じたい。

令和7年2月7日