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『サコ学長、日本を語る』を読みながら。

図書館で借りてまいりました、ウスビ・サコさん著
『サコ学長、日本を語る』を読了!
ウスビ・サコさんは、アフリカ西部にある
マリ共和国のご出身で、2018年から2022年まで
京都精華大学の学長を務めておられた。
この書籍は2020年刊行で、当時、サコ学長が
「教育」及び、著書のタイトルとしても記される
「日本」について語られていた。

ぼくは先週映画館にて、山崎エマさん監督映画作品
『小学校 〜それは小さな社会〜』を観ながら、
じぶんなりに教育について考えていたのですが。
先日のブログでも引用いたしましたが、
映画の公式サイトの「Introduction」では、
【6歳児は世界のどこでも同じようだけれど、
 12歳になる頃には、日本の子どもは
 “日本人”になっている。すなわちそれは、
 小学校が鍵になっているのではないか】
と書かれていて、また、映画の中では、
大学の教授をまねき小学校の先生方へと
講演をされる場面で、その講演のお話として
【日本の集団性の強さ、協調性の高さは、
 世界の真似たいことのひとつではありますけど、
 これは、じつは、諸刃の剣であることを
 よく知っておく必要があります。】
ということばがとくに印象的に思いました。

そして、今回読みました
『サコ学長、日本を語る』の中でもね、
「協調性」や「日本人」のことが書かれていて。
映画『小学校』を観たちょうどのタイミングで、
この著書を読めて、よかった、と感じておりました。
以下、書籍より引用を申しあげます。。。

 日本の教育課程、いわゆる学習指導要領がつくられ、各学校がそのカリキュラムに従って国が描く日本人像を定めること自体は、評価できる部分もある。子どもたちが、それを守りつつ、社会や家族などの影響を受けて成長することができないということに、日本の教育の大きな問題があるのではないだろうか。
 学校教育と、思考法や知恵を学ぶ「生きるための教育」は、両方が必要だ。(‥‥)
 これまで長年枠にはめてきた日本の学校教育は、本質的には変わらない。そうると、「学校教育はある意味で日本人養成過程なのだ」ということを認識できている自分がいるかどうかが、重要になる。認識した上で、自分で判断し、「自分のためになるからこの教育を受けておこう」と選択できればいい。そこは、「選択の結果」でなければならない。
 選択の結果にならないまま、「生きていく道はそれしかない」と思い込んで必死になったり、その教育を受けること自体が強制されていったりする現状があるならば、それは問題だと考えている。

ウスビ・サコさん著『サコ学長、日本を語る』朝日新聞出版、131-133頁

 日本には、衝突を避けたり、協調しないとダメだったり、という文化もある。それは実は、「協調性がない」ということではないかと、私は思うのである。
「なるべくぶつからない」とか、「できるだけちょっと避ける」とか、「意見を言うとあの人は傷つくから言わない」とか、「何かごましたり見て見ぬ振りをしたり」というのは、その人に対して誠実ではない。単に、表面的に協調しているようにつくろっているだけではないか。
 私にしてみれば、「空気を読む」というのは、本当の意味での協調性を否定することに思えるのだ。

同著、36頁

日本の学校教育とは、
日本人養成過程である、と認識した上で、
その教育が、「強制」ではなく
「選択」の結果でなければならない、及び、
日本人の協調性の高さとは、じつは、協調を
表面的につくろっているだけではないか、
つまり、それはいわば
「協調性がない」のではないか。
と、サコ先生おっしゃるふたつのことは、
映画『小学校』の講演のシーンでお話しされていた
「諸刃の剣」そのものを示しているようにも感じた。

「諸刃の剣」、つまり、
よくも、わるくも、
日本とは、なおかつ、日本人とは、
何だろう?! というふうにも思いながら。。。

このまえのブログではね、坂本龍一さん監修の
『アフリカの伝統音楽(Traditional Music in Africa)』
を聴いていたことを申しましたが、
マリでは、どんな音楽が流れているんだろう?

令和6年12月26日