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困難な成長のメタファー。
学校教育について考えるには、子供たちの
「成長」が大切なのだとぞんじますが。
ぼくは、その「成長」とは
どういうことなのか? ってえのは、
よくわかっていない。たとえば、
「わからないことがわかるようになる」とか、
「できないことができるようになる」とか、
「じぶん自身の悪いところを直す」とか、
もしくは、もっと単純なこととして
「身長が伸びる」とか、「大人になる」とか、
という状態を指すのだとは考えられるけれども。
子供たちは、年齢が上がるにつれて
「身長」は伸びてゆくにしても、
うえで挙げましたそれ以外のことは、
じつはどれもなかなかむつかしいとも思える。
ぼく自身のことを鑑みたとしても、
「できるようになる」「わかるようになる」
「悪いところを直す」及び「大人になる」って、
これまで、なかなか
実践できたことは無いんだろうし、
今だっても、日々、それらが
できているとは言い難いから。
でも、おそらく、ぼく以外の人たちは
大人も、子供も、どんな人でも、
日々、成長されていて、ぼくだけが
「成長」という概念の蚊帳の外なのやもしれないけれど。
だからこそ、そのような
成長についてよくわからない、なおかつ、
成長できてないぼく自身は、
だれかに対して、ことさらになって
「成長」が大切だ!
というふうに語れないんだなあ。
先日、映画館で観ました山崎エマ監督の映画作品
『小学校〜それは小さな社会〜』の中では、この
ドキュメンタリー作品の舞台となった小学校の
ある先生は、児童たちへと
「じぶん自身の殻を破ってほしい。」
とおっしゃっていたとぞんじますが。
つまりはさ、それこそが
「成長」を表すメタファーなのだと思うのですが。
でも、そのこともまた、ぼくならば
「じぶんの殻を破る」というのも、
なかなか、むつかしい、って感じてしまう。
じぶん自身の気持ちや心や考えが、
卵の「殻」の中に入っていて、
そこから抜け出してゆくこと。
つまり、新しいじぶんへと
「生まれ変わる」ことが成長なのだとも思うけれども。
そういうのもね、ぼく自身の場合は、
口で言うのは容易くとも、実際に行うのは
非常に困難なのだと感じてしまうから。
そういうふうに感じるぼくだからこそ、それが、
ぼく自身のダメさを示している所以なのだろうな。
でも、こう、なんだか
そんなぼくが思うのは、
「成長」をつよく求められることは、
つらくも思えてしまうのよね。
どんどん成長してゆく人は
素晴らしいと思うし、また、
努力して成長する人も素晴らしいと思う。
でもそれは、成長の
度合いも、速度も、タイミングも、
人によってまちまちなのだとも思うし。
だからこそ、そんなぼくが思うのはね、
成長する人は、よい、でも逆に、
成長しない人は、だめ、
というような分け方は、
苦しくも感じられてしまうの。
今日、成長しなかった人でも、もしかしたら
明日、明後日、いや、もしくは
一週間後、一か月後、一年後、十年後、及び、
三十年後とかになってから、
ようやく成長できるやもしらないし。
ならば、そういうような、その人自身の
将来の成長を願うことが、
「教育」なのかもしれないか。
殻を破るメタファーで考えるとすると、
「啐啄同時」の語句のごとく、
その人自身が、卵の中から
殻を破ろうとするだけでなく、親鳥が
卵の外から殻を破るのをサポートする、
みたいなことも考えられるのかなあ?????
でも、それだってもね、親鳥側が
時期をまちがえてしまえば、その
成長の機会を逃す、と申しますか、
はたまた、さらには、成長を
壊すことにもなってしまうやもしらない。
それだけ、やっぱり、
成長とは困難なのだとも思うっす。
令和6年12月23日