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ひょいひょいと飛び越えてゆくかのように。

先週、遠くにある台風による影響からなのか、
ある日の夜、雷がすごかった。
その翌日、ぼくが勤める学習塾の
小学生高学年の生徒さんと話しているとき、
前日の雷のことについて、ぼくから
「昨日の雷、すごかったねえー」
って伝えると、生徒さんは
「うちの近くで雷降った!」
と話してくれて、彼のこのことばを聴きながら
ぼくは少しばかり頭の中で考えながら、彼へと
「雷はね、『降った』じゃあなくって
『落ちた』と言うんだよ。」と説明したんだった。

ぼくがそう言うと、生徒さんは
「そう言えば、そのこと、今日
お母さんにも言われた。」
とのことでして、つまり、彼は母親からも
雷は「降る」ではなく「落ちる」である、
と言われていたらしい。

ぼくはじぶん自身ではそう言いながらも、
でも、ならば、どうして
雷は「落ちる」と言うのか、なおかつ、
雨は「降る」と言うのか、ってえのは
よくわかんないなあとも思ったんだった。
雨は「降る」だとしても、
雨粒は「落ちる」と言うだろうし、
「降る」と「落ちる」の語句の
明確なちがいというのがあるんだろうか?!

そう考えるとすると、たとえば、
「雷」や「雨粒」は、
あるひとつの物体なのだとして、
その物体が空から「落ちる」、そして
「雨」は、たくさんの雨粒が
まとまって落ちてくるから、そのときには
「降る」の語句を使うとされている。
とか、なのかなあ?????
これが合っているかは知らないけれども、
ふと、そんなふうに思ってみたんだった。

そしてまた、この生徒さんはその日、
国語の「詩」の単元を勉強していたので、
そのことに便乗してしまって、ぼくは
ぼく自身の個人的な考えとして、
「日常会話や何かを説明する文章としては
雷は『落ちる』と言ったほうがよいけれど、
詩を書く場合には、ぜんぜん、
雷が『降る』と表現してもよいし、なんならば、
雷が『落ちる』、でもなくって、
雷が『上がる』、とかだって言ってもよいよ。
詩は、それだけ自由だから。」
と伝えたのよね。

雷がさ、たとえば、
空へと舞い上がってゆく「龍」のごとくに
感じられたとすれば、詩の表現においては
「雷が上がる」と記したってもよいだろう。
そのほかにもね、ほかにどのような表現があるのかは
ぼくはぱっと思いつけないけれど、
どんな表現だっても、詩ならば、してもよい。
でも、通常の説明文として記すならばその言い方は
してはならない、というわけじゃあないにしろ、
常識的には、雷は「落ちる」とされている。

でも、なんだか、こういうような
「雷が降る」という表現もね、ことばの
言い方的には間違いなのかもしれないけど、
今のぼくだったらば、もう
「雷が降る」という言い方も、
思いつくことさえできないから。
いわば、ぼくは、常識に
毒されているんだろうなあー。

ともすれば、そういうような、常識を
ひょいひょいと飛び越えてゆくかのような、つまり、
よく言われる言い方ではない言い方を
することができる、というのもね、
素晴らしい! と言えるのかもしれない。
さらに、雷のことだけじゃあなくて
あらゆる物事において、ぼくはもうすでに
常識的な言い方に縛られてしまっていて、
あるときには、この生徒さんのように、その常識を
ひょいひょいと飛び越えられたらよいのに。

「降る」に関連する歌で言うとすれば、
フジファブリックの『星降る夜になったら』を
聴きたくなってくるなあ〜。

 雷鳴は遠くへ 何かが変わって♪

令和6年9月2日