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あの時の… (“ことば”と“意味”をめぐる対話 第八回)

ほんやのほ」の店主、伊川佐保子さんと、「語学塾こもれび」の塾長、志村響さん。二人による“ことば”と“意味”をめぐる対話、第八回目です。
少しお久しぶりとなった志村さんから伊川さんへのお手紙ですが、その「間(ま)」も、手紙のまた良いところだと思います。
そんな今回のお手紙では「言葉に対する想像力」と「信仰」について書かれます。最後には、伊川さんからの「宿題」へのお返事も。
(編集:ことばの本屋Commorébi(こもれび)秋本佑—「とおく」まで言葉が届くことを祈りながら。)

伊川さん、こんにちは。大変ご無沙汰してしまいました。
いつもは僕の方がお返しするのが早すぎて、なんだか返事を急かしているようで少し気が詰まったので今回は間を空けてみよう、と思ったまではいいものの、うっかりのんびりし過ぎてしまいました。

なんと前回のお手紙から三ヶ月近くも経ってしまい、もう忘れてらっしゃるでしょうけれどそう、スマホの「保護シート」の話です。

いつも保護シートをてきとうに貼り付け、気泡が入っても早々にあきらめてしまうタイプなのですが、きっと志村さんのスマホはきれいな状態を維持されているのでしょう。

と書いてくださったところ期待を裏切るようで何重にも気が引ける思いですが、僕は実はスマホの画面には何も貼っていません。iPhoneとは違ってAndroidの画面は丈夫なので、まぁ落としてもそう簡単には割れず、なので「きれいな状態を維持」は間違ってないですね。

この「iPhoneとは違って」というところに僕のアンチApple魂が見え隠れします。つまらない意地を張るのが得意なのです。いや、別に嫌いというわけではなく、単純に昔からXperiaなので、惰性でずっと使っているだけなのですが。それにひとたびiPhoneにするとパソコンもMacにしなきゃいけないだろうし、なんだかそう考えると億劫なのでずっとAndroidにしがみついています。

よってパソコンもWindowsなわけですが、つい先日、急に動かなくなりました。儚いものです。昨日まで使えていたものが急に使えなくなるというのは非常に困りましたが、案外冷静に、すぐにコールセンターに電話をかけ、普段の僕なら考えられないような機敏さで修理をとりつけました。
こういうことがあると、アップデートに耐えられなかったのかなぁとか、大人しくMacにしておけばよかったかなぁとも思いますが、僕は「なかなか動かない」パソコンに慣れているんです。スマホもいつも型落ちのものを使っているし、指を滑らせた数秒後にようやく画面が動くのだって慣れています。というかそういうものだと思っています。

それはともかく。

気づいたのは、私は頑固に「想像と表現が人を助けるだろう」と思っているのだということでした。
ここでいう「想像」とは、あえて定義するならば「分からないことをあきらめないという試み」のことです。

と書いておられましたね。
「表現」について、先日たまたま見た番組であるミュージシャンが「今吸った空気で、今どんな歌が吐き出せるか」みたいなことを言っていて、それに対して純粋に羨ましさのようなものを感じました。その羨ましさは、「表現できること」に対してです。前にも書いたかもしれませんが、「作品を作る」ということに憧れがあるんです。自分にはできていないことだから。
(ただもちろん、「作品を作る」ことだけが表現ではないですし、その意味では僕も日頃から、表現をしているのでしょう。それに「語学塾こもれび」という場も、言うなれば一つの作品です)

それから「想像」ですよね、つい最近、ある人と約7年ぶりに会ったんです。7年っていったらすごいです。その間にあったことを何ひとつ共有していないってことですから。もう会うことはないんだろうな、と漠然と思っていたその人に対して、僕は気づいたら「想像力」の話をしていました。正確に言えば「言葉に対する想像力」という言い方をしました。この数年の間に、こもれびで、だけじゃなくいろいろな場所で僕がしてきたこと、それを目の前にいる今の自分を知らない人に伝えるにあたって、これは外せないと思ったのでしょう。

世の中には言葉に対する想像力が豊かな人もいれば、貧しい人もいます。ただ、その想像力は最初からあるものというより、徐々に身につけていくものなのでしょう。方法は様々、本を読んだり、ただ人の話を注意深く聞いたり、自分で文章を書いてみたり、いろいろです。そして僕にとっては、「外国語を学ぶこと」がそのいちばんの方法でした。自分ひとりの経験を一般化するのがよくないのはわかっています。でも、「外国語を学ぶこと」は必ずその人の「言葉に対する想像力」を養うものだ、と考えています。これは僕の “信仰” と言ってもいいです。そしてそれが「人を助ける」と思っているのだから、もしかしたら伊川さんと考えていることは同じなのかもしれません。

外国語教育に携わっていてよく見かけるのが、「昔はあんなに話せたのに…」という人たちです。海外在住経験のある大人、とくに年配の方に多い印象ですが、僕はこれに関して一貫して「別にいいじゃん」と思っています。使わない言語は忘れていく一方、というのは抗えぬセオリー。僕みたいに仕事にしてしまえば別ですが、そうでもない限り日常生活で使う機会のない言語は当然、完全に忘れ去られてしまうこともそうそうないにせよ、間違いなく衰退していきます。ただ、高齢者が免許を返納できないように、ずっと裸眼だった人が老眼鏡を拒むように、「話せなくなった自分」を受け入れる痛みに耐えられない人が多いような気がします。

僕はその立場になったことがないから本当のところはわかりません。仕事で使わなくなって、だんだん遠ざかってフランス語が話せなくなったら、多少見苦しくとも「忘れない」ための努力をするかもしれません。でもこれって、その外国語を「話せること」にしか価値を見出していないから出て来る発想かな?とも思うのです。

僕はみんながみんな、外国語をやったら「話せるようにならなきゃいけない」とは考えていません。いや、とはいえ生徒さんが「そうなりたい」と言ったら僕はそれに応えるまでなのですが、でなければ、別に勉強したからって話せるようにならなくたっていいし、昔話せたからっていま話せる必要もないと考えています (外国語を “話す” ってとにかく大変で、大変な覚悟と時間と犠牲、あるいはそれら全部を忘れるほどの集中力が要るので)。

それは何か外国語を学んだことによって、たとえ話せなくとも、残るものが必ずあるはずだと考えているからです。昔、一時期親しかった友人、みたいなものでいいんです。今はどこで何をしているのかわからないけれど、その人と出会ったことによって人生が少し変わった気がする、とか、しばらく経ってから再会したときに「あぁこんな顔してたな」と思えるとか。とにかく出会えてよかったと思えればなんでもいい。そういう気楽さが、もうちょっとあってもいいのになと思います。

ただ、気楽になり切れないところもあります。それは外国語というのはたいてい、誰かにとっての母語であり、アイデンティティだからです。だから外国語を勉強することは、誰かのアイデンティティを借りること、もっと言えば盗むことです。そして盗むには、慎重さと、想像力が要ります。〝「外国語を学ぶこと」は必ずその人の「言葉に対する想像力」を養うものだ〟と言ったのは、そういうことです。

この “信仰” は、僕が仲間や生徒たちと「語学塾こもれび」という場所を作り、続けていく上でも大事な拠り所になっています。この場所に集う人が、誰かの言葉を通して自分の言葉に出会い、また誰かに言葉を届けられるようになればきっと僕は報われます。

勝手な印象ながら、志村さんには、「言いたいこと」がちゃんと、たくさんあるのではないかという気がしています。うまくニュアンスを伴って書くことがむずかしいのですが……だれかに向けて、言いたいことを言おうとすることに慣れてもいるようにも思います。それは語学を教えているからかもしれませんし、以前からのことなのかも知れません。言いたいことがあり、伝えようとすることははとても大事なことです。それに、美しいことだと思います。私はそういう姿勢がとても好きです。

これもたぶん、その通りなのでしょう。もともと「言いたいことを言う」タイプでしたが、語学に触れるようになり、輪をかけてそうなりました。美しくありたいものです。

伊川さんは、昨今いかがお過ごしでしょうか?北の大地に拠点を移されたと、風の便りに聞きました。小伝馬町のお店にはじめて足を運んだのは去年の夏だったでしょうか、あの場所がもうなくなってしまったのは悲しいですが、伊川さんならどこにいても、自分が楽しいと思うことをして、そして周りを楽しませられるのだと思います。言葉はどこにでもあるものですから。

追伸

伊川さんからの「宿題」、やってみました。
好きな本で、やってみようと思ったのですが一文目が長すぎて諦め、せっかくなので伊川さんと同じ一節で遊んでみました。

ぼくは速さにあこがれる。ウサギは好きだがカメはきらいだ。

これのアナグラムですよね。一回全部ひらがなにしてメモ帳にベタ打ちして、部分的に切ったり貼ったり順番を入れ替えたりして見えてきた言葉を掬い取って…とやっていたらなかなかうまく行かず試行錯誤した末…、二つできてしまったので、駄文ですがお披露目します。

僕が晒す刃先は息切れ、蟹が逸る雨は蛇行だ。

これが一つ目。「僕が」で始めてしまっているのが心残りですが、ふだん決して一緒に使われることのない言葉(雨と蛇行とか)が並ぶ様子は、なかなか口をきかない者同士が肩を並べているようで見ていて愉快です。

そしてこちらが二つ目。

ガキはうるさ過ぎだが、ぼやく母は呆れサラダにイカ込め。

なんだかいきなり覇気がなくなって、自分でも笑ってしまいました。

●志村響(しむら・ひびき)
1994年東京生。「語学塾こもれび」塾長。まぁ無理にフランス語やらなくてもいいのでは?が口癖になりつつあるフランス語教師。言葉と音と服が好き。人の話を聞いていないように見えるときは相手の声音を聴いているか、月にいる (être dans la lune) かのどちらかです。
●伊川佐保子(いかわ・さほこ)
1992年東京生。本屋「ほんやのほ」店主、会社員もしている。言葉と本と人が好き。手紙をポストに投函するのが苦手。飛び立つ胸に書店ひとつも止し、晴れたが幸いへ行かせて「世界平和」いざ語れば、書物と瓶で四時に眠った人(とひたつむねにしよてんひとつもよしはれたかさいわいへいかせてせかいへいわいさかたれはしよもつとひんてよしにねむつたひと)。

<これまでのお手紙>
第一回 伊川佐保子 「言葉の抜け穴」(2019/11/20)
第二回 志村響 「ワイン風呂と風のベンチ」(2019/11/29)
第三回 伊川佐保子 「とりとめもない未発見」(2019/12/20)
第四回 志村響 「一人で、砂漠」(2020/1/9)
第五回 伊川佐保子 「メロンソーダに慣れている人」(2020/2/23)
第六回 志村響 「なにも言えなくなる前に」(2020/3/18)
第七回 伊川佐保子 「信仰が終わらせるもの」(2020/5/3)

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