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一人で、砂漠(”ことば”と”意味”をめぐる対話 第四回)

小伝馬町の本屋「ほんやのほ」の店主、伊川佐保子さんと、国分寺の「語学塾こもれび」の塾長、志村響さんによる"ことば"と"意味"をめぐる往復書簡。第三回は、伊川さんから志村さんに宛てたもので、「文章ってどうやって書くといいんでしょうね」という書き出しから、伊川さんの文章の書き方について書かれていました。
第四回は、そんな伊川さんの書き方を知った志村さんの応答から始まります。その名も、「一人で、砂漠」。このタイトルを目にしただけで色々な風景が目に浮かびますが、さて、ここで語られるのはどんなことでしょうか。
(編集:ことばの本屋Commorébi(こもれび)秋本佑)

文章の書き方は僕も頭を悩ませるところです。僕の場合ついつい、何を書くにしても文章全体の「見た目」を気にしてしまいます。段落の最後の行は半分以上行っていてほしいとか、括弧の前後は半角空いていてほしいとか、場面によってはむしろ重宝されることなのかもしれませんが、やっぱり文章のリズムとかダイナミズムとか、そういったものが失われるような気がするので考えものです。
だって例えば note にしろ twitter にしろ、紙媒体でもない限り文章の表示は必ずしも自分が見ているようにはなされないわけですから、段落の形がどうこう、というのは結局ただの自己満足になってしまうんですよね。ということで今回はやり方を変えて、word にざーっと打ち込んだのを note に移植することにしました。

なんかこう横書きの巻物みたいに、書いたそばからどんどん横にスクロールして行って改行せずにそれこそ一本の “線” みたいに書けるソフトみたいなものがあればいいのに、とも思います。何書いたか見えないから不便でしょうけど、話してる時だって話したことは消えてしまうわけですから。

不思議です。
文章と呼ばれるものにははじまりがあって終わりがあります。
一本の線を描くように流れていきます。
それが曲線か直線か、強弱があるか、そういう違いはあるにせよ、一本の線のように見えます。

これ、言語学の世界では言葉の「線状性」と言ったりします。内容としてはそのままで、言葉は “一本の線” のようなものだから行ったら戻れないし、何重に重ねることもできないということです。そう考えると言葉は時間と不可分です。巻き戻せないテープみたいに一方通行で不完全な言葉、で 僕たちは伝え、語るのでしょう。

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ところで今、困っています。
何が困ってるって、お返事を書くときに参考にしようと最初に伊川さんからのお手紙を読んだときのインスピレーションの断片を書き残しておいたのですが、そのメモに「一人で 砂漠」と書かれているんです。
が、お手紙のどこをどう読んで、果たしてどれが起爆剤になって僕を「一人で」「砂漠」に向かわせたのか、何度読み返しても思い出せないのです。“言葉になる前の、未発見の景色を探す旅行ツアー” 、あれば僕も参加して、迷子になったインスピレーションを迎えに行きたいところですが、、

いくら頑張っても思い出せないので、諦めます。仕方ない。でもせっかくなので砂漠の話をしたいと思います。(この話をしたかったわけではないような気がするんですが、) 実は僕は砂漠に行ったことがあるんです。もう五年半も前ですが、モロッコで一人旅をしていたときのことでした。
あの時のことはよく覚えています。印象的な体験だったし、この話を何度も書いたり、人に話したりしているからでしょう。スナフキンがどこかで「旅の話はしたくない、話したことしか覚えていられなくなるじゃないか」というようなことを言っていて本当にその通りだなぁ、と思うのですが、話したり書き残しておくことで記憶がいつでも取り出せるようになるのも、それはそれで言葉の魔法。すごいことです。

それは “言葉になる前の未発見の景色” ではなく、「 “砂漠の真ん中で満天の星空” を眺める旅行ツアー」でした。知り合いに紹介してもらった宿で行われていたのですが、ツアーと言ってもその時の参加者は僕一人。僕とラクダと案内人のオマールの三人で砂漠の真ん中へと歩いていきました。途中あろうことか雨が降ってきて、心底ビビる僕に「大丈夫、止む」と言ってものの十分後にほんとうに雨が止んだ時には、ビーチサンダルを履いて悠々と砂の上を歩くオマールに一生ついて行こうと思いました。
ラクダに揺られて一、二時間、無事にキャンプに着くと一人で辺りを歩き回って、どんどん沈んでしまう足を一歩ずつ前に繰り出しながら砂丘に上り、雨上がりの砂漠の夕景を眺めたりしていました。

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そのあとはテントに入れてもらい、オマールが準備してくれていたタジン鍋を食べているうちに夜の帳が下りました。雨は上がってもまだ曇っていたし、満月の次の夜で月が皓皓と明るかったので、「満天の星空」はまったく見えませんでした。晴れた冬の東京の方がまだ星が見えるくらい。ただ、本当にびっくりするほど月が明るくて、白い光の下でこれなら本当に手紙が書けそうだ、と思いました。

その夜のことです。思い出せる中でもいちばん孤独な夜でした。オマールはテントの中で寝ていいよと言うのですが、僕は外がよかったので砂上に寝そべって夜空の下で寝ることにしました。あまり眠くならないので、立ち上がって低い丘を散歩しました。そのとき吹いた風に、僕の言葉は吹きさらわれました。顔を上げると、見えるのは一面の砂と夜、異様に明るい月だけです。周りには誰もいません。そしてそこで月を見て「月だ」と思った僕が、とても不自然に感じました。聞く人がいないのですから、月を月と呼ぶ理由はありません。ただそれとして眺めていればいいんです。それでも、どうやってもそれを「月」と呼び、体に当たる何かを「風」と名付けてしまう。この頼りない幾つかの言葉は、夜の砂漠の真ん中にほとんど一人で取り残された僕にとって、かろうじて誰かと繋がっているための最後の糸でした。

これがなくなったら、あぁいよいよ本当に独りなんだな。生まれる前と死んだ後はこんな感じだろうか、と思いました。やっぱり言葉の城は、砂上の楼閣なのかもしれません。死後の世界に言葉は連れていけるでしょうか?


世界が ただあるかたまりなら
つらなり またがる あたたかい風
(せかいかたたあるかたまりならつらなりまたかるあたたかいかせ)

感動してしまったので、アンサーソングを作りました。

笊で撒かれた灰、火星の風寄せ、かの異世界は誰か待てるさ
(さるてまかれたはいかせいのかせよせかのいせかいはたれかまてるさ)

回文ってやっぱりすごいですね、一本の線には変わりないのに巻き戻せるんですから。時計と同じ向きにしか進めない言葉を束の間、反対からなぞることができる。回文の言葉はもしかしたら、死の彼方からやってきているのかもしれません。

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追伸

書き終わってから、思い出しました。「一人で 砂漠」の正体です。

飽きもせず出どころは『星の王子さま』なのですが、第二章の冒頭です。

J'ai ainsi vécu seul, sans personne avec qui parler véritablement, jusqu'à une panne dans le désert du Sahara, il y a six ans.

有名な一文ですが、これじゃなんだかわからないと思うので解説すると、J'ai ainsi vécu seul で「僕はこんな風に一人で生きてきた」、sans personne avec qui parler véritablement「本当の話をできる人もおらず」、jusqu'à une panne dans le désert du Sahara「サハラ砂漠での(飛行機の)故障まで」、il y a six ans 「六年前」といった具合です。

これを訳すにあたって、正攻法でいくといわゆる「後ろから訳す」方法を採用しがちです。そうすると「六年前のサハラ砂漠の不時着まで、本当の話をできる人がいないまま僕はこんな風に一人で生きてきた」のような訳になります。(日本語には “不時着” というぴったりの言葉があります)

ただ、このように訳すこともできます。

僕はこんな風に本当の話ができる人もおらず一人で生きてきたが、そんなある日サハラ砂漠に不時着した。六年前のことだ。

あくまでこれは一例ですが、この訳の特徴はできるだけ原文通りの順番で訳しているところです。それぞれのパーツを極力もとの順番のまま、繋ぎ言葉を補ったりしながら訳しました。あるパーツが他のパーツより前にあったり、後ろにあったりすることにはちゃんと意味があります。この一節のすぐ後にサハラ砂漠を舞台とした話が続くので (王子さまが初めて姿を現すのもここです)、それは “何をもったいぶりたいか” という問題でもあるのですが、こういったことの全部が言葉の「線状性」がもたらすジレンマです。「線」がなくなれば時間も、物語もなくなってしまいます。

この「追伸」は、word ではなく note にそのまま打ち込みました。やっぱり少しお行儀がよすぎるような気もしますね。

●志村響(しむら・ひびき)
1994年東京生。「語学塾こもれび」塾長。まぁ無理にフランス語やらなくてもいいのでは?が口癖になりつつあるフランス語教師。言葉と音と服が好き。人の話を聞いていないように見えるときは相手の声音を聴いているか、月にいる (être dans la lune) かのどちらかです。
●伊川佐保子(いかわ・さほこ)
1992年東京生。本屋「ほんやのほ」店主、会社員もしている。言葉と本と人が好き。手紙をポストに投函するのが苦手。飛び立つ胸に書店ひとつも止し、晴れたが幸いへ行かせて「世界平和」いざ語れば、書物と瓶で四時に眠った人(とひたつむねにしよてんひとつもよしはれたかさいわいへいかせてせかいへいわいさかたれはしよもつとひんてよしにねむつたひと)。

<これまでのお手紙>
第一回 伊川佐保子 「言葉の抜け穴」(2019/11/20)
第二回 志村響 「ワイン風呂と風のベンチ」(2019/11/29)
第三回 伊川佐保子 「とりとめもない未発見」(2019/12/20)

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