「書いてる限りは書き放題」
「執筆する以上は手を抜かない」
私のポリシーです。というのは、もし手を抜いて書いたものが良かったら、自分で納得も満足もしないから。悪かった場合は、私の性格上、「手抜きしたから仕方ない」と言い訳に走るのが、はっきりと目に見えているから。やる以上は何かしら、意義や意味を見出したい、それがポリシーの奥にある気持ちです。
大江健三郎は生前、「死ぬまで小説家として生きてやる」と言っていたそうです。私もそうありたい、と思います。それでも、スランプにはまったり、自分で「いい」と思った作品が評価されなかったりすると、「私は何をやっているのか」とひどく落ち込むこともしばしばあります。ですから私は、実際に「小説家」として生きていた大江をすごい、と心底思います。
私にとっては、遠藤周作も尊敬する小説家のひとりです。周りがぞくぞく作品を発表するいっぽう、病に伏せていた遠藤は、「自分は何をやっているのか」と、「書きたいのに書けない」状況に苦しんでいた時期がある、と彼のエッセイにありました。
二十代のほとんどに当たりますが、実家にひきこもっていた時期、私は小説を書こうとしたことが何度かありました。しかしながら、気力も体力もなく、被害妄想の症状もあり、世間を知ることが怖くてニュースや新聞を見られず、社会に出ているだろう知り合いを見るなどもってのほか、という状況だった私には、書けることがまったくなかったのです。
当時の「書きたいのに書けない」というジレンマが、「死ぬまで小説家として生きたい」今の私を、どこかで支えている気がします。
とても残念なことですが、今の世界情勢は、戦争だったり、気候変動だったり、大きな災害だったり、「これから私達はどうなるのか」と考えてしまう話題に事欠かなくなったよう思います。自分について、いつまでも平和に小説を書いていられないのでは、と不安にもなります。
だからこそ、私は「自分が小説を書き続けられるよう」、自作品を世の中に役立てたい気持ちがあります。いままで自分が味わった悔しさ、そして、今持っている意志を、自分の居場所、行き場所を作る手段にしたい。
私は、尊敬する、あるいは、自分がなりたい小説家の姿に近付けるでしょうか。
2024年12月9日
*タイトルについて
SCOOBIE DO『スピード』の歌詞をもじりました(本来は、「生きてる限りは生き放題」)。
スクービードゥーは、希望を歌う、ものすごくかっこいいバンドです。ふだん暗くなりがちな私も、口ずさめば気分が上がります。