第19話「潮彩の僕たちは宛てのない道を歩く」
トイレの前で待つ間、あの凍りつくような空気は漂っていなかった。公民館の中は完全なる空調設備によって温度調節されている。あのとき感じた、凍りつくような寒さはなんだったのか?
僕らは温もりを泳いでいたし、震えるようなことはなかった。だけど、確かに僕の息は白かった。寒さを感じない寒さが肌に感じていた。意味のわからないことだけど、僕が素直に感じた感想だった。
腕時計で時間を確認すると、時刻は午後十三時になっていた。これから何をして過ごそうか。そんなことを考えてるとき、桃香がトイレから出て来た。
穢れの知らない手のひらは、きっと綺麗に洗われた。僕の精液も石鹸の泡によって流れ落ちたのだろう。
「海ちゃん、あのさ……」と桃香が困った表情に恥ずかしそうな顔を混ぜながら話す。
桃香の内容を簡単に説明すると、要は射精したとき、晴れ着に付着させたというわけだ。あんなにも飛ぶなんて思わなかったと恥ずかしそうに呟いた。
それはそれで、僕の方も恥ずかしかった。
「ねえ、着替えても良いかな?」桃香がどんな意味を込めて言ったのか、そのときはわからなかった。
「いいけど、どこで?」と僕は訊き返す。特に桃香が着替えたいと言っても断る理由がなかったからだ。
それはそうだろう。僕らは何も終わりなんて言っていない。サンドイッチの中身を大事にしてる途中だったんだ。だから、しんしんと降り続ける雪の中を傘もささずに歩くことを選んだ。
公民館から出ると、幾人かの新成人たちの姿があった。しんしんと降り続ける粉雪の中、僕と桃香は最寄りの駅へ向かった。駅に到着すると、コインロッカーに着替えがあると桃香は言う。
僕は一人、駅の構内で待った。しばらくしたあと、桃香が少し大きめのトートバッグを肩に下げて戻って来た。
「行こう」と桃香は僕の手を引っ張って歩き出す。行く先も告げられることもなく、僕と桃香は最寄りの駅から離れた繁華街へ消えて行った。
無数の粉雪が空中に浮かぶ光景は、まるで時間が止まったような感覚に陥った。私は大人の成人式が始まるまで、幾つかのルールを守ることだけ考えていた。
一階で行われていた成人式が終わり、関係者の人間や新成人たちが二階へとなだれ込んで来た。私はソファーから立ち上がり、人目を避けるように避難した。
正確には隠れたと言うべきだろう。
ルールを守るために、密かに見つけた階段下の空間へ……
その隠れ家は、僕と桃香が数時間前に居た場所だった。そのことを知ったのは数日後だけど。そして、公民館を出た僕と桃香は……
繁華街から路地裏に歩いて辿り着いた場所。ラブリナルホテルという名前のラブホテルだった。着替えの場所にラブホテルを選んだ訳は訊かなかった。
訊いてしまったら、この瞬間が雪みたいに溶けて無くなると思ったからだ。それに、ここまで来る間、ずいぶん身体は冷え切っていた。
階段下の空間で感じた寒さとは違い、感情のある冷たさで身体の芯が凍るようだった。
つまり、現実の寒さなんだ。肩に積もった雪を払って、僕たちはホテルの入り口を潜った。寒さのせいで、初めてのラブホテルに緊張感は薄れている。何故なら、早く暖房の効いた部屋に行きたかったからだ。
そんな僕とは反対に、桃香はパネルに並んだ部屋の様子をじっくり見て選んでいた。どの部屋が良いかと聞かれても、僕にはどれも同じに思えたし、正直言って着替えるだけなので、どの部屋でも良かったんだ。
僕と桃香の想いが変わったとき、サンドイッチの中身は大事な愛を挟むように変化するのだろう。
無数の粉雪は、僕らの姿を消すように降り続けていた。
第20話につづく
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