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第9話「アネモネ」

最後の追い込みで大方仕事が終わると、机の上に足を投げて煙草に手を伸ばした。終わり良ければ全て良しと言うが、時計を見てしまうと気持ちは嘆いてしまう。

もうすぐ時計の針は十一時を越えようとしていた。まるでマラソンランナーが、ラストスパートに向かっているみたいだ。

天井に向かって煙を吐きながら、僕は無駄な時間を過ごしたと、人生のライフポイントを減らした気分になってしまう。

「ねぇ、禁煙なんですけど」と僕の頭の上で声が聞こえた。

デスクへ足を投げて、踏ん反り返るように椅子に座っていたので突然の声に驚いた。焦って目線を上にすると、僕の顔を見下ろすようにして恵子の顔が目に映った。

「な、何だ。お前かよ!?」

「ふふ、びっくりした?」と恵子はそう言って隣のデスクの椅子へ座り込んだ。

「心臓が止まるかと思っただろう」と僕は態勢を起こすと恵子を睨んで文句を言った。

予期せぬことが起きるのは苦手で、どうしてもあの出来事を思い出してしまう。驚いた拍子で床へ落ちた煙草を拾うと、僕は咥え煙草のまま恵子を見た。

椅子に座った恵子の膝の上に紙袋が置いてある。紙袋を見て駅前のサンドウィッチだとわかった。もしかして夜食を持って来てくれた?

「はい、どうぞ」と恵子はそう言って紙袋を渡して来た。

「何か悪いことした?」

「何よそれ、私があなたに貸しがあると思ってんの?」

「貸し借りはないけど、お前が気を使うなんて珍しいから」

「たまには良いでしょう。それに大変そうな感じだったし」

「だったら、手伝って欲しかったよ」

「あら、もう終わりそうなの?」と恵子は椅子から立ち上がって、給湯室の方へ歩き出した。

「まぁ、大方終わったけど」

「なら良かったじゃない。コーヒーぐらい淹れてあげるわ」

真夜中のオフィスに香ばしいコーヒーの匂いが漂う中、僕はサンドウィッチを口に運んで腹を満たそうとした。

確かに腹は減っていたので助かった。本音は手伝ってくれたら、もっと早く終わって帰れたんだけど。そこまで贅沢は言えないか。わざわざ差し入れを持ってきてくれたことは嬉しかった。

ガス欠気味だった腹が満たされると、僕は残りの仕事を片付けていく。隣で恵子がスマホを覗きながら待ってくれていた。キーボードをリズム良く叩いては、訂正箇所を直していく。終わりのトンネルの出口が見えた時、僕は意味もなく溜息を溢した。

いや、無意識のうちに溢したのか?

隣で恵子が教えくれた。子供の頃は溜息なんてしなかったよな。大人になると、溜息が多くなるのは悩み事が増えるからなんだろうか?

終わりのトンネルを抜けた時、僕は大人というのが息苦しさを感じるのだった。

時刻は刻々と零時に近づいていた。

第10話につづく

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