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記憶を紡ぐ糸 第5話「過去の私」

 記憶を無くす前の私が住んでいたアパートは、築十年ほどの四階建てアパートだ。古くもなければ新しくもない。茶色い外観のどこにでもある普通のアパートだ。

 私たちは管理人の金子さんが住んでいる一階の家を訪ねた。ドアを開けて出てきたのは、丸い眼鏡をかけて少しふっくらとした体型の温厚そうなおばさんだった。家の中からは、テレビドラマの音声が聞こえてくる。

「あら、若葉ちゃんじゃないの。今までどこにいたの? 心配したのよ」

 金子さんは私の顔を見るなり、驚いたように声を上げた。そして彼女は、大げさなくらいに安堵を浮かべた。私の隣に立っている友一さんを見つけると、金子さんは「あなたは?」と不思議そうに聞く。友一さんを私の恋人なのではないかと疑っているようなトーンだ。友一さんは丁寧に自己紹介をし、私が記憶喪失だということ、彼が私を引き取ったことを簡単に説明した。金子さんは驚きを隠せないという表情で、私を見つめる。

「心配しないでください。私は大丈夫ですから」

 私は彼女を心配させまいと、下手な作り笑いを浮かべる。

 私たちは、金子さんに以前私が住んでいた家を訪ねた。彼女は私の家は三階の302号室だと教えてくれた。

 三階まで階段を上り、左の二軒目のドアまで歩くと、私たちは302号室を見つけた。友一さんが金子さんから借りたマスターキーで鍵を開ける。ドアを開けると、整理整頓された部屋が目に飛び込んだ。見たところ、以前の私は整理整頓をきっちりする綺麗好きだったのだろう。ソファの上には熊のキャラクターのクッションが置かれていたり、全体的に淡い色で部屋をまとめていたりしていて、いかにも普通の女の子の部屋だという感じだ。

 私たちは、あの光景で見た水色のスマートフォンを捜し始める。もし家に忘れただけだったら、目につきやすいところにスマートフォンを置くはずだと思い見回してみたが、それらしき物は全く見当たらなかった。友一さんも見つからないと不審がった表情をしている。

 これはあまりにも不思議だ。部屋にも私のスマートフォンは無い。それでは、あの光景は何だったのだろうか。あのスマートフォンは誰の物だろうか。考えれば考えるだけ、深みにはまって抜け出せなくなるような気がする。

 他の手掛かりになりそうなものを探したが、これといったものは見つからなかった。私たちは、金子さんにマスターキーを返しに家を再び訪ねた。

「何か、手掛かりは見つかったの?」

 金子さんがそう聞いてきたので、私は首を横に振る。彼女は「そう……」と残念そうな表情を浮かべた。

「あの、金子さん。記憶がある時の私は、どんな人間でしたか?」

 金子さんなら以前の私を知っている。そう思って、私は尋ねる。ただ単純に、私がどのような人間だったか知りたいから。どのような人間であっても、私は受け入れる覚悟だ。

「明るくて、いつも挨拶してくれるとっても良い子よ」

 金子さんは笑みを浮かべながら、そう言った。その後も、私が彼女の落とし物を一生懸命探した話や、私が家の鍵をなくして金子さんに玄関のドアをマスターキーで開けてもらった話を、懐かしむように彼女は私に話してくれた。私は、何だかほっとした気分になった。

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