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小景異情

遥奈


私が崇拝しているアーティスト、磐田市のアーティスト遥奈さん。2018年の2月ごろ、彼女がトマソンという聴き慣れないものについてラジオで語っていた。

wikipediaによると、トマソンとは下のように定義されるものである。

「超芸術トマソン」

「まるで展示するかのように美しく保存されている無用の長物。存在がまるで芸術のようでありながら、その役にたたなさ・非実用において芸術よりももっと芸術らしい物を『超芸術』と呼び、その中でも不動産に属するものをトマソンと呼ぶ。その中には、かつては役に立っていたものもあるし、そもそも作った意図が分からないものもある。 超芸術を超芸術だと思って作る者(作家)はなく、ただ鑑賞する者だけが存在する」

例えば下の写真のようなものがトマソンである。

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通常ネットではトマソンを見て皆笑う。存在する意味が分からないからだ。しかし遥奈さんは違った。

彼女は『深海ラジオ』でこう語り出した。

「トマソンとは、懐かしいもの。こころがある。私に似ている」
「無意味だと馬鹿にされても、そこにあり続けている。本当の自分がそこにいる」

彼女の次のライブで、私は質問をしたのだった。

「これはどういう意味ですか?」

「死にきれずに生きている、『こんなはずじゃなかった』と生きているものを見つけたんです。それこそが本当の自分。私に似ているんです。それが幸せです」

死にきれずに生きているものと共に抱いた悲しみが、つながりとなる。彼女の幸せとはそうしたものだ。

当時24歳。少女の面影すら残る人。この哲学は、24歳の人間に可能なものではない。彼女には何かが見えている。それが何かは全くわからないけれども。

誰にも語っていないのかもしれない。かつて彼女が強要された緘黙は、絶望の中に愛を看取る優しさとなった。「悲しみこそがつながり」と語る彼岸の眼を持つ歌い手は、誰よりも死に近い透明な歌を歌う。その絶望が奏でる調べは、もう一つの世界の扉を開く。

小景異情



歌とはなにか。詩も小説も、祈りも、「文書」ではない。詩は説明せずとも伝わるが、それにも関わらず表現せねばならないものだ。

分かっているものをわざわざ語り、なにが伝わるというのか。

親友と語り合う。
すべてを分かりあった恋人とも、語り合う。

もう一つの世界の扉が開かれるのだ。そこでは。

小景異情という詩がある。室生犀星のものだ。ありふれた日常が輝きだす瞬間。宇宙の真実のすべてが掌の中におさまる瞬間。悲しみや絶望ですら輝くのだ。遥奈の歌のように。

E.フロムは「すべての悲しみは他者と違うことから生じる」と述べた。「我らが愛を知らねば、不安や恥ずかしさを隠すために他者を罵りだしてしまう」とも。神に咎められたアダムが、イブを罵り出したように。

人は精緻に他者を観察することで、この不安を乗り越えようとした。

だが目の前にある事実を確認することで、人は分かり合えなかった。目に見えるものは皆違う。観察すればするほどに、他者と自らの違いが際立ってしまう。どんなに精緻な契約を交わしたとしても、必ず罵り合いが始まるのだ。

別世界に行かねば。契約など交わさずともすべてを分かり合える世界へ。いま見えている世界のその先、愛が存在する世界へ。

「愛とは、、、」
「、、、存在への解答である」

フロムはそう語る。

だから、もしあなたが誰からも愛されていないのであれば、あなたは存在していないことになる。
そんなことを意味する言葉を語った。

契約の世界にあなたは存在しない。そこは愛の世界ではなく契約の世界なのだから。争いしか存在しない世界。愛以外で解決する問題など、この世には存在しない。それなのに我らは契約で問題を解決しようとしてしまった。

なぜ人が怒りだすかと言えば、違うことが恥ずかしいからだ。

愛があれば、恥ずかしいまま、裸のままいることができる。あなたは愛がないにもかかわらず、裸でいられるというのか。

なぜ親友は語り合い、もう一つの世界へ行くことができるのか。
なぜ恋人は、別世界へ行くことができるのか。

裸でいられるからだ。
本当の自分でいられるからだ。
愛があるがために。

裸でいよう。恥ずかしいままで。

それ以外の世界であなたは存在することができないのだから。

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お読みくださいまして、誠にありがとうございます!
めっちゃ嬉しいです😃

起業家研究所・学習塾omiiko 代表 松井勇人(まつい はやと)

下のリンクの書籍出させていただきました。
ご感想いただけましたら、この上ない幸いです😃

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