『経済人の終わり』から大戦を考える その5
ドラッカーが憎んだ全体主義について
「その国で最も重要とされたことは、経済ではなかった」
「その国では犠牲を払うことこそが、社会的なステータスだった」
「下層階級の人々がパンやジャガイモ、チーズなどを買うために、上流階級の人々は自主的に犠牲を払った」
「その国の経済で何より重視されたのは、発展ではなく完全雇用であった」
「技術のない失業者たちは不況で多大な被害を被るものだが、彼らこそが、完全雇用によって最も利益を得たのである。経済的ステータスを得るまでではないが、収入面でも相当改善が見られた」
「下層階級の人々が生活をしていくために、とてつもない注意が払われた」
「パンやポテト、チーズなどの生活必需品は豊富にあり安かったが、、肉やバター、卵などの贅沢品は陳列棚からなくなるか、とてつもなく高くなっていった」
「1932年のこうした方策が保たれていれば、下層階級の人々は少なくとも今より20%高い賃金を得ていただろう」
これは理想世界を描いた記述ではない。ファシズム政権下の社会を描いたドラッカーの記述である。
「もしあるうら若き人がムッソリーニ政権下のイタリアについて尋ねられて、こう答えたら皆笑うだろう」
『物乞いもいなかったし、列車は時間通りに来たわ。モーターボートは世界で一番早いし、道路だってどこよりも広いの』
「しかし、この感想こそがどんな教養よりファシズムを正しく表現している」
「ファシストが目指したものとは、機械的・機能的に正しい都市だった。ただ、そんな最先端都市は、社会の役に立つかどうかに関しては完全に的外れであった」
星新一のようだが、こちらも『経済人の終わり』の記述である。
民主主義と全体主義、合理的な産物
全体主義では、機械的・機能的に社会を構成するもの、すなわち組織こそがすべてだとされた。他のすべては組織に従属せねばならなかった。
この観念は、スケジュール通り・計画通りに物事が進行している時には良いものだった。専門家たちの心を恐ろしいほど捉えた。しかし、一旦、ほんの少しでも予定外のことが起こると、全ての歯車が狂ってしまった。
そして理想郷を目指した全体主義は、ファシズムへ落ちてゆくことになる。
民主主義はもともと自由と平等を求めたものであり、スコラ哲学から生まれている。しかし、あまりに合理的に作られたために、民衆の感情を喚起できないものになった。
だが一つだけ、民主主義においても感情を喚起させられるものがある。それが戦争である。
民主主義が行き詰まった時、国民をまとめるためには戦争しか残されていないのだ。
ドラッカーは言う。
「戦時下では、すべての国がファシズムとなる」
と。
全体主義の合理的観点から見ると、民主主義は劣ったものとされた。経済的な平等性に欠け、国民を動員する力にも欠けている。さらにリーダーシップを取ることも難しくするからだ。
全体主義は合理性の権化である。民主主義が行き着いた姿だと捉えることもできる。
ゆえにドラッカーは、民主主義を完全に否定している。
権力を志向してしまうこと
組織は成果を出すことよりも、権力を志向させてしまう。権力だけをもたらし、意味をもたらすことがなかった。
「信じるものは組織だけである」
それでは社会を作るには弱すぎる。
全体主義は秩序も信条も作り出すことができなかった。だが、そうした欠陥はあまりに矛盾した結果を引き起こしてしまう。
民衆は全体主義を信じ、受け入れたのである。
不満を感じれば感じるほど、人々はファシズムに頼ってしまった。犯罪者が犯罪に、薬物中毒者が薬物に頼るように。
神のいない社会で、人は悪魔を作り出した。ヒトラーは、ユダヤ人を悪魔に仕立て上げて標的にし、それによって国をまとめた。本当は無害なものを悪魔に仕立て上げてはいないかと、現代においても再確認する必要がある。
社会は完成に近づくときに、今日のように崩壊する。中世のローマ皇帝や、ピューリタン革命の時のように。そして救世主の存在が誇張されるのである。
腐敗に潜む新世界
ならば、新しい世界はどのように産み出されるのだろうか。
宗教的自由と平等は、宗教が社会の基盤でなくなったとき達成された。
同様に政治的平等も、政治よりも経済が優先されるようになり実現した。ならば経済的平等も、経済より重要な何かがある社会で実現されるはずである。
ヨーロッパは、こうして次々に新しい世界を作ってきた。他の世界が安定していることに比して、欧州は破滅と勃興とを繰り返してきた。これは強みであり弱みでもある。欧州の人間たちには、創造性と同時に破壊性が内在している。
新しい世を作ると同時に、旧世界の破壊を宿命づけられている。秩序と意味のない世界を選ぶよりは、全体主義を選んでしまうように。しかし、それは同時にヨーロッパ社会がまだ生きているということをも示している。
民主主義は、新しい非経済社会を作ることができなければ、全体主義に陥らざるを得ない。
ヒトラーの世では、一人一人の内的な宗教がシェルターとなった。同時に、新しいヒューマニズムが若い人たちから生まれてきた。若者は全体主義の虜とさせられていたはずであるのに。
彼らは社会になんの効果も与えられず、創造的でも建設的でもないと考えられていた。単に自暴自棄な者たちであると。
しかし13世紀に、似た者がいたことを思い起こしてほしい。社会での役割を放棄し、有用とされていた学問を捨てた者たちが。
そこで生まれたのがルネサンスだった。
自らに落伍者の烙印を押した者たちが、経済人の概念の限界を乗り越え、新しい非経済的な社会的存在のあり方を作った。
落伍者こそが、世界に自由を授けるのである。
世界が再び戦争に頼る可能性も十分考えられる。過去にしがみつかねばならない者は必ずいるからだ。経済学者がいつも過去の不況に備え、投機家がいつも過去の栄光にしがみつくように。彼らによって戦争は起こされるのだ。
悪臭の中の真実
我々は、新時代の活力がどこに隠れているのかを知る由もない。彼らが戦争の世紀をどう打ち破るかを知る術もない。しかし、闇に潜む知恵を蔑むことを控えるなら、悲劇を脱するだろう。
一つ言えることは、この世に眠る叡智は、我々の中にではなく悲しみと悪臭の中にあるということだ。
例えば、こんな問いを投げかけたい。
「貧困は悪か?」
貧困は悲しいものである。だが、貧困を消滅させようとすることは、完全雇用を目指したファシズムと似ている。
力を志向するのではない。力よりむしろ、弱さや侮蔑、醜さを。ヘーゲルが述べた、自らの弱さからもたらされる真実を。
強さがもたらす欺瞞ではなく、寂しさの中にあるつながりを。力に内在する欺瞞こそが、世界を破綻させるのだ。
政治や経済。合理的なものには、新しい世界を作り出す力がない。新しい世界はもっと根本的な自然な力の中に、虐げられた者の基本的な日々を映しだす何かから生まれる。
時代は闇の底の微かな光を、手探りで探し当てられるかどうかで決まる。
学習塾・起業家研究所omiiko 代表 松井勇人
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