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愛するための技術がなければ、人は人を愛すことは出来ない。E.フロム『愛するということ』より。

Fromm, E. (2013). The art of loving. Open Road Media Kindle

E.フロムはその主著「愛するということ」でこう言う。(25ページ)

「我々は神を解明する頭脳を得ることは叶わなかったが、神と共にいる智慧を得ることはできる。」

この一文こそ、本書のコア中のコアである。どういう意味なのだろうか。

(原文:the attempt is given up to know God by thought, and it is replaced by the experience of union with God in which there is no more room— and no need - for knowledge about God.)

神でも人でも同じ事だ。人の心を解明することなど、我々には不可能なことであった。「心とは何か」そんなことを考えても無駄だ。「彼女と共にいるために何が必要なのか」。我々は、ただそのことについてのみ考察すれば良かったのである。

フロムは理論面・実践面に対してその答えを提出した。

まずは理論面を見ていこう。

神と共にいるために、人は4つの概念を知らねばならないとフロムは説く。

1.Care ケア
2.responsibility 責任
3.respect 尊敬
4.knowledge 知識

1.Care ケア
ケアとは慈悲の心だが、ただ優しいことだけを意味してはいるわけではない。何よりも彼が強調するのは「行動すること」。居ても立っても居られない気持ちで、愛する人に必要な事や物を提供しろと叫ぶ。行動が伴わないのであれば、あなたは彼を愛してなどいないのだ。実践する思想家。松陰や孟子の思想とも近い。

神もヨナにこう言っている。「愛のエッセンスとは誰かのために働くこと。そして何かを育むこと。愛と労働とは一体。切り離すことなど出来ない」。(私訳)

2.responsibility 責任

責任とは自ら行動すること。自主的に人に反応することである。responsibility(責任)とは、response(反応)するability(能力)なのだ。自分のやりたいことを勝手にやるのではなく、誰かのために反応してあげること。3.respectに続くが、他者性がなければ愛などではない。受け身であり、能動。この両義性こそが愛の特徴であろう。

3.respect 尊敬

respect(尊敬する)はラテン語のrespicere = to look atに語源を持つ。彼のあるがままを観察し、彼女のユニークな個性に気付くこと。そんな暖かな眼差しこそが尊敬の正体なのである。

4.knowledge 知識

観察を通し、あいつを知ろうとすること、つまり「知識」が芽生える。「自我」の檻から「自己」を解放させろ。他者に対する関心を持ち得た時にのみ、人は孤独を超越することが出来る。智識とは開放なのだ。

神を解明しようとする知識は暴力に似ている。蝶の羽をむしり取るような暴力的な好奇心だ。そうではない。共にいるための智慧こそが愛なのである。後者の知恵の形、フロムの語る知識とは仲間になるための智識である。

フロイトは”physiological materialism”「生理学上の物質主義」に落ちいるという誤りを犯した(27page)。辛さを取り除くために性衝動があり、セックスから生じる化学物質こそが救いの源泉であるとしたのである。

辛さを取り除くことに救いはない。つらさと共にいることに快感を見出すことこそが救いなのだから。

実践編

それでは、実践編へと移ろう。

愛とはナルシズムを超越することだが、献身できる人だけがナルシズムを超えた公の視点、(現代で言うメタ認知・第三者の視点)を持つことが出来る。「公:おおやけ」とは謙遜や礼を身につけた時にのみに抱くことが出来る。

公の視点を得るためには、常に自らの視点と他者の視点との相違に考えを巡らせねばならない。一日に少しの間、そうした思考に時間を取るのではない。四六時中、常に、いついかなる時でも、そうした観察をしている必要がある。これには誠実さを必要とする。自分本位では、自らの視点と他者との視点とを区別することができないからだ。愛の鍛錬とは誠実さの鍛錬と同義なのである。

(著者注:これには括目させられた。松陰や西郷、尊徳らがなぜ「誠」を仁を得るための最重要事項とした理由を示しているからだ。彼らは誠について説くが、誠のメカニズムについては説いていない。誠とは他者と自らの視点を交錯させるためのもの。それこそがおそらく仁であり愛でもあるのだろう。)

権威に従った誠は偽もの。自分の体験でつくりだせ。

誠実な忍耐をもって自己の追及をしないとすると、どうなってしまうのか。そのとき人は、アイデンティティの感覚を権威に頼らざるを得なくなる。これは自立の反意語、服従であり操作である。教育の反意語は操作。ここだけには絶対に陥ってはならない。誠(愛)と権威とは排他関係にあるのだ。

自らに誠実である時、人は生産的になり得る。(私見だがこれはおそらく、その人が天から与えられた課題に取り組むことが出来るようになるからだろう。)
(原文)The basis of rational faith is productiveness: to live by our faith means to live productively. (98 page)

誠の追及には勇気が必要である。安全や安定を是としているようでは誠を得ることなど出来はしない。防御を是とし、何ものからも距離を取るのだとすれば、それは檻の中の囚人と同じなのだ。

それでは「誠」自体はどう育めばいいのか。


いつどこで誠を失っているのか。
どこで臆病な自分が顔を出しているのか。
そしてどのように回復していったのか。

誠を醸成するとは、そうしたことを常に観察することであるという。

もしあなたが、愛されないことばかり恐れており、愛することに意識が向いていないとするなら、それは影の人生を生きているということだ。

あなたがくれただけ、わたしも与えよう。こんな物質的な態度と愛とは全く異なる。全てをかなぐり捨てて与える。見返りがなくても与える。全てを捨て去る。それでよい。

愛こそを至上命題にすればよい。それで生きていけるのかと問われれば、生きていけると答えられる。経世済民の力がお前に必ず救いを与えるからだ。

おまけ:

ほとんどの人は他人の話を聞かずに人にアドバイスを送ってしまう。これは孤独に耐えられず、他者に自らを承認してもらおうとする態度。そんなものは愛などではない。つまり、一人でいられる能力があって初めて他人の話を聞くことが出来るようになる。孤独な人こそ他人と共にいられるのだ。

また、愛の感覚を得るためには、体の感覚にも気を使っていく必要がある。愛の能力を醸成している最中には、すこしの痛みを感じたりすることもある。これはジェンドリンのフォーカシングを思い起こさせる。

残念なことだが殆どの人が、精神を統合している人を見たことがない。だから、自分がどんななのか分からない!このことを見過ごしていることこそが、教育プログラムの最大の欠点である。成熟した、愛することが出来る人がその場に存在しているだけでいい。それこそが教えなのである。

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