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ドンマイ

先日、朝出勤して通用口から売り場の方に歩いていくと、一人のクリンネスさん(当店での清掃員の呼称)が靴売り場の床に膝をついて何かを懸命に拭き取ろうとしているのが目に入った。
この方は物凄くシャイな男性である。多分二十歳にもなっていないと思う。以前拙記事でもちょっと取り上げたことがある。
クリンネスさん同士は、作業が大変な時などは「ヘルプ」といって応援を求める為にインカムを使用しているので、私達にも大体の名前と声は分かる。だが彼の声は一度も聞いたことがなく、名前も知らなかった。名札を見るとAさんというらしい。
「おはようございます。何か汚れてたんですか?」
と言いかけて床に目をやると、大量の油がこぼれている。彼は作業の手を止め、おどおどと顔をあげて私を見た。
「あ…あの…廃油の缶を倒したみたいで…」
聞けばテナントに入っている飲食店の従業員が、台車に積んだ廃油の一斗缶を落としてしまい、油が流出したらしい。自分で始末はせず、立ち去ってしまったそうだ。なんとまあ。
「油って拭き取るもんなんですか?」
普通、油は広がるのでおがくずを撒いて処理するはずだと思い、聞いてみた。
「はあ…取り敢えず今はこうやって拭いて…後で…」
拭くのはマズいような気はしたが、彼には彼の掃除のやり方があるのかも、と思い直して
「そうですか。すいませんがよろしくお願いします」
と頭を下げると、彼は頷いてまた一心不乱に油を拭きだした。

私も朝の清掃があるので、彼にばかり関わりあっている訳にもいかない。開店までに油がなくなると良いけどあのペースであのやり方で大丈夫かなあ、とちょっと気にしていたら、開店してすぐに
「あの…ちょっと見て貰って良いですか?」
と彼が私を呼びに来た。
「はい?」
「一応…油は全部拭き取りました。でもちょっと滑りやすいかなあ、って思うんです…確認して…もらえませんか?」
寒い日なのに、前髪が汗で額にくっついている。相変わらず目を見ようとはしない。確認は必要だろう、と考え
「わかりました」
と答えて一緒に床を見に行く。

やっぱり、拭き取りは完全には出来ないようだ。少しツルツルする。油だからアルコールなどで拭くのが良いとは思うけど、Aさんの心配そうな顔を見ていると可哀想になってしまった。幸い寒いせいか、お客様の出足は鈍い。レジに備え付けのアルコールで後で拭いておこう、と思って
「ありがとうございます。大丈夫でしょう。お疲れさまでした」
と言ったら、彼は肩をホッと落として
「失礼しました」
とお辞儀して清掃員控室に戻っていった。

暫くしてAさんが青果の売り場に向かうのが見えた。程なく、
「ガシャーン!」
とけたたましい音がした。青果売り場は隣である。覗きに行くと、彼がモップの柄の部分を陳列してあったリンゴジュースの瓶に引っ掛けて落としたらしい。彼はまた必死で床に這いつくばって拭いている。開店した後だからお客様は既に何人かいらしたが、幸い誰も濡れたり怪我したりした方はいないようだ。ホッと胸をなでおろす。
それにしてもジュースはかなり広範囲に広がっている。瓶のかけらも危ない。けれどシャイすぎる彼がインカムを使う様子はない。迷ったが、必死の形相の彼を見かねて声をかけた。
「よろしかったら応援要請しましょうか?」
彼は床に膝をついたまま、はっとした様子で私を見て困ったような笑顔になり、殆ど聞き取れないくらいの声でこう言った。
「お願いしていいですか」
私はすぐにインカムで応援要請した。ベテランのクリンネスさんから応答があり、間もなく駆け付けてくれた。

その後売り場に戻ったら、しばらくしてAさんがそのベテランさんと一緒に件の油の跡までやってきた。遠くだから会話は聞こえなかったが、なにか注意されているように見えた。彼は俯いてペコペコしていた。やっぱり油は拭いちゃいけなかったのかな、と思った。
後でそのベテランさんがスプレー片手にやってきて、丁寧に床を拭きなおしてくれた。乾いた後行くと、全く滑らないようになっている。油専用の洗剤を使用してくれたようだった。お客様が滑ったりしてはいけないから、安心した。

あの日はAさんの厄日だったんだなあ、と思う。誰だってそんな日あるよねえ。ドンマイ、ドンマイ。
青いバケツとモップを提げて、小さい歩幅でせかせか俯きがちに歩いていく彼の背中に、いつも心の中でエールを送っている。