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感情の受け取り方

久しぶりに母から連絡があった。ピアノを処分したのだという。私達姉妹が約十年ほど使っていたものだ。勿論アップライト型で、何年か前まで定期的にメーカーから調律師も来ていた。
まだ十分使えるものではあるが、現在のところ私達も妹も使う予定はない。母は時折手遊びに弾いたりしていたようだが、最近は触りもしない状態で埃を被ったままだったらしい。
遅まきながら断捨離を始めた、ということだった。
母が欲しくて買ったピアノだったので、私にも妹にも特に思い入れはない。が、母は自分が強く望んで買った物だし、私達がこれを弾いていた頃の事を思い出して、一人涙にくれたようである。

その気持ちはわかる。が、母が感じたほどには感じられない自分がいる。
母は昔から、こういう時自分と同じように嘆いてくれるように『圧』をかけてくる。妙な言い方だが、べったりすがりつかれる感じがする。
同じように嘆かない自分が、まるでとても冷酷な人間のような気がしてくる。罪悪感で落ち着かなくなる。
今回も冷静な普通の返事を返したら、ぷっつりと返事が来なくなった。拗ねているのかも知れないし、怒っているのかも知れない。
本音を言うと相手をするのはかなり面倒臭いので、冷たいようだがこれにて終了でホッとする気持ちもある。

自分が悲しかった、感動した、嬉しかった、怖かった、というのは「自分」の感じたことなので、同じ事実を他人がどう感じるかはわからない。親子でも、夫婦でも、感覚の近い人と遠い人がおり、これは親しさとは必ずしも比例しない。
「こう感じろ」なんて、誰にも強制出来ない。
常識である。

しかし、感情に溺れるとこの判断が出来なくなるものらしい。こんなに悲しいのに同じように悲しまないなんて、私と親しいのに同じように喜んでくれないなんて、という反応が返ってくるとウンザリしてしまう。
あなたと私は別の人間なんですよ、どう感じるかは人によって違うんですよ、といくら言ってみてもわかってはもらえない。
残念な事だ。
よくテレビのニュース等にいかにも「お涙頂戴」的なニュアンスで伝えられるものがあるが、こういうのを見聞きしても私は白けてしまう。拒絶反応が起きる。こっちの感情を勝手に先取りするな、と言いたくなる。
これも近い感じがする。

私は冷酷な人間なのかも知れない。が、それが私の感じたことなのでしょうがない。母とは違うのである。
ピアノの思い出はあるけど、淡いノスタルジーを感じるくらいで、涙をこぼすことはない。母に対して「可哀想に、辛かったね」と言えるほど、同情も出来ない。母を憎んでいる訳ではないが、一緒に涙をこぼすほど悲しくはなれない。年寄りに対して非情かもとは思うが、私は母のこういう投げかけに対して非常に警戒し、不快になるようになっている。
恐らく、まだ心のどこかで母をちゃんと受け入れていないのだろう。自分をコントロールしようとし続けた母に、境界線をしっかり引かねばと思ってしまうのだ。
母にとっては可愛くない、期待外れの娘だろうが、これが今の私なので「ごめんなさい」というしかない。

そう思ってはいても、心のどこかでは
「お前、そんなんで良いのか」
と私を責める声がこだましている。胸がモヤモヤする。「良い子」で居たい自分がいる。「そうでなければ愛されない」と脊髄反射のように感じてしまうのだ。
「良い娘で居なければならない」
「親孝行しなければならない」
「年老いた親は大事にしなければならない」
『世間』はそう言う。どれもいちいち尤もだ。
だが、「私」の感情に蓋をしてまでそれらを行う必要はない。「私」の感情は私だけのもの。他の誰に異を唱えられても、自分が感じたように感じるしかない。感情に正解なんてない。常識なんてない。

自分の感情の受け取り方を他人に指示することは出来ない。
母にその事実を理解しろ、と言っても無駄なのだが、そう思ってしまう自分がいる。
そんな自分がイヤになる。そしてそんな感情を引き起こしたキッカケを作った母をつい恨めしく思ってしまう。
だが、母がどう考えようとどう感じようと、それもまた自由だ。母には母の世界がある。恨めしく思う、というのは母同様、「私の思い通りになってくれ」と私が母に対して思っている、という事でもある。
母が作った感情の世界に、私自身が引きずり込まれないようにすれば良いだけだ。

いくつになっても、他人との付き合いは自分との付き合いだとつくづく思う。