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お返しの要らない贈り物

我が姑は贈り物を貰うと、絶対にそのままに出来ない人だ。必ず『お返し』をする。それも、絶対に貰った物より高い物を選ぶ。

『お返し』を貰った方は恐縮する。ああ、ここまで値打ちがある物をあげてはいないのに、かえって気の毒な事をした。じゃあ今度はもう少し良い物を贈ろう、と思う。で、そうする。
すると、更に良い物が姑から返される。

何度か繰り返すと、お互いが精神的にも経済的にも疲弊する。もうここらでやめにしたい、と思う。
が、姑は自分からステージを降りる事は絶対にしない。相手が諦めるまで、延々と『お返し』をする。
こうなってくると、最早『お返し』ではなく、『仕返し』である。
ラリーの続く、息詰まる卓球の試合のようになる。

姑には悪意は全くない。ただ『もらいっぱなし』が嫌なのだ。だから永遠に自分が貰って終わり、になる事はない。なんとも難しい話である。
私のおばは姑の古い友人なのだが、贈り合いっこがいつまでも続きすぎて、おじに「あんたら何時までやってる気や?」と笑われたらしい。

姑の過剰にも見える『お返し』は、相手にすればちょっと不愉快な時もあるだろう。力でねじ伏せられるような気がするかも知れない。

結婚当初はこの姑の気質を知らず、こちらから贈り物をしようものなら、イチローなみの素晴らしい瞬発力で『お返し』されていた。
ああまたか、なんでやねん、可愛げないなあ、素直に喜んでくれへんのかーい!と思ったりしていた。
だが、そのうち諦めた。夫もすまんけど諦めたってくれ、と言った。息子がお手上げなのだから、嫁なんか何をかいわんや、である。

姑はそういう人なのだ。贈り物をもらうのが嬉しくない訳ではない。
自分という人を周囲の人より低く見ている。そして、自分なんかにこの人がこんな凄い物を下さった、と本気で恐れ入っている。まるで殿様の前で這いつくばる足軽、みたいな感じの気持ちのようだ。

贈る側は自分を殿様だなんて思っていない。普通に対等な関係だと思っている。なのに急に、姑という名の自称足軽によって、殿様にされてしまう。だから面食らう。当たり前の感情である。

子供がまだ小さかった頃、私が高熱を出してダウンしてしまった事があった。私の母がどうしても来れず、夫が連絡して姑に来てもらった。
2日程して熱も下がり、次の日には帰るとなった日、夕飯の支度をしていた私が出汁を取った後の昆布を捨てようとすると、姑がそれを使って作りたい物がある、ちょっと頂戴という。
不思議に思ってどうするのか見ていると、小さく刻んで、ありあわせのいろんな材料を使って、ご飯にのせる味付け味噌みたいな物をちゃっちゃと作ってくれた。美味しかった。
こんな物が出来るんですねえ!と感心すると、姑はとても満足そうな顔をして、ニコニコした。
どんな贈り物をした時より、嬉しそうな笑顔だった。

つい先日この話をしたら、姑はもう忘れてしまっていた。が、とても嬉しそうだった。
姑には、その存在に心から敬意を払う事が、お金の要らない、『お返し』をされる事のない、最高の贈り物なのだと思った。