思いわずらうことなく、愉しく生きよ
「休みたいときは、休めばいいと思うよ」
かろやかに笑うそのひとのことを、何度も思い出した。
彼女はいつもかろやかだった。
疲れて少し不機嫌なところを除けば、怒っているところを見たことがなかった。
もっとも、その「少し不機嫌」だって、他のひとにはあまり気づかれないような、ささいなものだった。
「明日、交通事故にあうかもしれないし」と言ったときも、彼女はかろやかに笑っていた。
休むことと「サボる」ことの線引きや違いについて難しいと感じているのは、おそらくわたしだけではないと思う。
もうこれは、そういう類のものなのだ、きっと。
電車を乗るために走る人は一生走るし、
絶対には知らない人は、ずうっとそうなのだ。いつでも。いつまでも。
そういう類のもので、休むとサボるの線引きがうまいひとはずっとうまいのだし、
下手なひとた「うまくできた」ような気がするだけで、たぶんまた悩んだりする。
なんだかサボってばかりいるな、という気持ちの正体が目的地のなさであることを、わたしはもう、うすぼんやりと気付いている。
どこかへいきたいのに、それがどこかわからないのならば近づきようがないし
結果それは何もしていない、「サボっている」という気持ちを生んでいる。
ような気がする。
今日の帰りは、あそこかあそこのコーヒー屋に寄ろう、という決意は、各駅停車の電車の中で、いちど揺らいだ。
家に帰るとサボってしまう、家でがんばるのは難しい。
とりあえずコーヒー屋に逃げよう。
でも、逃げたあとどうしよう?
目的地なんてないのに?
本は、最近読み始めた。
正確には、2018年の3月頃から図書館に通うことを覚え、自身のアップデートのために、様々な本を読んできたわけだけど、
そうではなく
最近は、小説を読んでいる。
小説の甘美さを知っているので、わたしは少し恐れていた。
どこかへかんたんに連れていかれてしまうのだ。
そして、連れていかれなかったらどうしよう、という恐怖もあった。
なにかが枯渇しているいまのわたしも、どこかへゆけるのか
少し前に、勇気を出してエッセイを買ってみた。
浅野いにおさんは、同じ大学の出身らしく、映画ソラニンの撮影を町田アクトでしていたあのときのことは、今でも覚えている。もう十年以上前になるのかもしれないけど。
好きな人が、浅野いにおが好き、と言っていたのもあって、
なによりその帯に惹かれて、思わず買ってみた。
漫画家の日記のようなエッセイがどこかへ連れて行ってくれるわけもなく、
都内とか多摩川で終始くすぶっているようなはなしだった。
それがわたしにはみょうにちょうどよく、
小説を読んでみよう、という気持ちにさせた。
整理した本棚に少し余裕ができたので、いくつか本も買ってみたけれど、
やっぱりしばらくして、わたしは自分の本棚の前にうっとりと仁王立ちをした。
余裕のある本棚には、お気に入りのへんなマスコットのキーホルダーと、オーナメントが飾られている。
手持ちの中で内容を覚えていない本を選ぼう、と思い
江國香織さんの「思いわずらうことなく愉しく生きよ」を選んだ。
すばらしいタイトルだと思った。
三姉妹とその両親、三姉妹の恋人も出てくるこの壮大な物語は、わたしを遠くへ連れて行ってくれた。
今日は本だけ読もう、と思ってコーヒー屋に座ってみた。
煙草を吸って本を読める、というのも大きな醍醐味だ。
家の煙草は換気扇の下だけで、もちろん椅子も用意してあって快適だけれど、煙草を吸うためだけの場所なので、本を読むには適さない。
今日は、堂々と、のんびりとタバコに火をつけている。
三姉妹の中では、末っ子の育子が好きだった。
友達にはいないタイプだし、自分と全然違って理解できなかった。
でもずっと、いちばんまっとうなことを言っているようで、友達になりたいと思った。
わたしは現実の世界に戻って、やっぱりコーヒーを飲みながら
何か書こう、と思った。
たぶん、生み出すしかないんだ、ということに
やっぱりわたしはうすぼんやり気付いている。
なんの意味がなくても、どこへもいけなくても、わたしは、
何度くすぶっても、
なんの意味がなくても、と何度も言うということは、やっぱりなにかに意味を求めようとしすぎなのだ。
「うたうことに意味など求めてもむだ」と言ってもらったばかりなのに。
どうして気付いて、思い出して、すぐに忘れてしまうんだろう。
思いわずらうことなく愉しく生きよ、
そんなことができたら、どれだけこうふくだろうか、と思うけれど
わたしは今日も、たしかに「思いわずらいながら」愉しく生きている。