午前七時前のエクササイズ
「お、三度か。流石にコート着ていこかな」
ニュースの気象情報を観ながら、夫が呟く。
極端な汗かきの為、思い切り低い気温にならない限り、コートを着ないことにしているのだ。
だが今朝は冷える。普通の人はコートなしではかなりきついと思うが、この人はどうするだろうと思いつつ、答えを促す。
「要りますか、要りませんか」
夫は自分ではコートを取りに行かない。
洋服ダンスは全て二階である。必要なら、忠実なる下僕が取ってこなければならない。食事を中断し、階段に向かう態勢を取りながら、着替えている夫を振り返る。
現在、六時五十五分。夫の出発時刻五分前である。
「うーん、着ていこか」
『すまんけど取って来てくれ』は省略だ。ええ、良いですよ。いつものことです。
「了解」
ダッシュで階段を昇り、コートを手に駆け下りる。
「はいよ」
「ありがと」
ミッションワン、終了。やれやれである。
ところが今度はコートに袖を通しながら、夫がふいに
「あ、パッチも穿いていこかな」
と言いだした。部屋着を脱いだら思いのほか寒かったらしい。
駅まで早足で歩くと汗をかくけどなあ、とブツブツ言いながら迷っている。時間が惜しいとは思わないのか。何故今になって迷う?早う決めてもらわんと困る。
「どうしますか、穿きますか、やめときますか」
せっつくように、またも尋問開始。こっちは早く食事を再開したい。
「うーん、寒いし穿く」
思案の末、夫が顔を上げて決意したように言った。
「了解」
再び階段を駆け上がって下着入れの引き出しを開け、パッチを一枚取り出すと素早く階段を駆け下りる。
時刻は六時五十七分。本日二度目のダッシュである。
「あ、やっぱり穿くと具合ええわ。ありがと」
夫、悦に入っている。ちょっと腹立たしい。
何?その軽い『ありがと』は。
思わず抗議する口調になる。
「あの」
「なんや」
『なんや』じゃないでしょうが!
人の食事を中断させたことなど、この人は全く意識の外である。慣れてはきたものの、鈍感過ぎないか。一ミリでも感謝してます?
ロッテンマイヤーさんのように、眼鏡をずり上げる。
「ご要望はなるべく一度にまとめてお願いします」
「すんません」
「私、食事中なんですけどね」
「ごめんなさい」
ニヤニヤして通勤用のリュックを背負う夫。
悪びれる様子なし。こんちくしょうめ。
それにしても、負けたような気分になるのは何故だろう。
「ほな行ってきます」
六時五十九分。見送るため、三度朝食を中断。
玄関に向かう夫の後ろからついていく。
やれやれ、今日のダッシュは二回で済んだか。
と思いきや、夫は靴を履きかけて
「あ、手袋二階の机に置いたままやったわ。今日はないと寒いなあ」
と言う。
前日、バイクに乗るためにしていって、上着のポケットから出し、取り敢えずそばにあった机に置いたようだ。そのままらしい。
「ほう?持って来させて頂きましょうか?机のどのあたりに?」
普段は真冬でも滅多にしない手袋を、今日に限ってするんですかい。なんでやねんな。
完全に嫌味の敬語を繰り出しつつ、三度目のダッシュの態勢をして、階段に足をかける。
「いや、自分で取ってくるわ」
履きかけた靴をポイポイと脱ぎ捨てて、夫はダッシュで二階に向かう。なんて珍しい。今日は雪が降るんじゃないか?
小さなため息をつきつつ、乱暴に散らかった靴を丁寧に揃える。このままではすんなり履けまい。小学生の母親になった気分である。
暫くして夫は手袋を嵌めながら降りてきた。ニコニコしている。
「ああ、あったかい」
普段からちゃんとしていけば良いのに、と思う。
最初からそうしてあったように、夫は靴に足を入れた。
お母ちゃんがちゃんと揃えといたったで!と心の中でブツブツ言う。
「じゃあ行ってきます」
「今度こそ、忘れもんない?」
もうダッシュしたくないが、可能性はある。夫がドアを開ける直前まで、いつでも走り出せる態勢だ。
「大丈夫」
ホンマやろな。もう走らへんで。
「気を付けて行ってらっしゃい」
「お」
首をすくめてコートの襟を立てた夫の背中に、笑顔で手を振る。
はあ、やっと行ったか。
今朝のエクササイズはこれにて終了。
食卓に戻り、冷めかけたコーヒーをすする。
あったかいうちに飲みたかったなあ。
ヨーグルトも生ぬるい。食事は適温が美味しいように思う。
ま、最後は自分で取りに行ってくれただけマシか。
二階に駆けあがった夫の背中を思い出して、小さく笑う。
穏やかな休日の始まりである。