雨が降れば地は固まる
その人は私の若い頃勤めていた会社の、私より幾分歳下の同僚であった。
真面目で、一本気で、仕事が出来、いつも胸のすくような事を歯に衣着せず誰にでも言える、頼もしい人であった。
周囲も頼りにし、厚い信頼を寄せていた。私も例外ではなかった。
やりたい事があると言って、惜しまれながら会社を辞め、新しい仕事を始める準備をしていた。
ある日、その人は自分が深刻な病に侵されている事を知った。
しかし遠く離れた家族を頼らず、一番身近にいたパートナーを頼った。
パートナーも応援すると言ってくれていた。
治療は成功し、何日かの期間を経てその人は快復した。
だが、残酷な現実が快復したばかりのその人を待っていた。
最も信頼を寄せて頼りにしていたパートナーが、快復の為の期間の間に、あっさりとその人に背を向けたのである。
パートナーには、実はもう一人大切な人がいた。その事はその人もわかっていた。
しかし、もう一人の大切な人には新しい命が宿っていた。
その人には永遠に望めなくなってしまった新しい命を、もう一人はあろうことか、自分の愛するパートナーとの間に育んでしまっていた。
あまりにも突然の一方的で決定的な別れだった為、その人は自分を見失ってしまった。
そして自らをこの世から消そうとした。
駆けつけた家族によって、その人は危うい所で一命をとりとめた。
病院のベッドで目覚めた時、自分は一度死んだと思ったそうだ。
その人は今度は深く心を病み、家族からも隔離された。
周囲は全く連絡の取れなくなったその人をとても心配したが、なす術がなかった。
辛い思いをした土地から遠く離れた場所での、完全な隔離生活は嬉しい事ではなかったが、その人の心と身体を休ませるのにかなり有効な手段だった。
檻の中の動物のような生活をしながら、その人は少しずつ自分を取り戻していった。
前のパートナーとの苦い思い出のある土地には、家族のようにその人を心配し、気遣ってくれる人が大勢いた。
その人の人柄が自然と寄せた人達なのだが、その人自身は「どうして自分なんかがこんなによくして貰えるのだろう?好意に甘えて良いんだろうか?」
と本気で怯えていた。
でも、その人は怯えながらも気遣ってくれる人達の許に戻ろうとしていた。しかし勇気が出なかったに違いない。
「戻りたいけど、良いと思う?」と連絡をくれた。
思うようにしたら良い、と背中を押した。
その人がそれを望んでいるのが強く伝わってきたから。
家族は辛い思いをした土地に、その人が戻る事に猛反対した。
そしてその人は結局、家族から縁を切られた。
「大丈夫、自分の思うようにしたら良い。自分の人生なんだから。みんなで支えるからいつでも頼ってきて」
泣きながら決心を伝えて来てくれたその人に伝えた。
その人の孤独と不安を思った。
でも自ら家族との関係を絶つ決心をしたその人を見て、私は絶対にその人は立ち直ると確信した。
私は遠く離れているけれど、その人の戻る土地には温かい仲間が沢山いる。私はその仲間達に連絡を入れた。
そしたらみんなその人を受け入れる用意を既に始めていた。
「みんな待ってるよ」
その人に伝えた。
その人は漸く安心して元居た所に戻った。
家族はその人の行動力と、その行動に多くの他人の支えがあった事に驚き、その人に一目置いた。
そして、関係は少しだが改善した。
家族との切れかけた糸は繋がった。
結局その人は自分の力で自分の居場所を作り、仕事に就き、日々の生活を整然と送っている。
力を貸す人は居たけれど、それはその人の人間的魅力に惹かれて側に居ることを自ら選んだ人達である。
これまで甘えて来なかったそれらの人達に、甘えて良いと言う事をその人は今回学んだ。
両者の距離は一層縮まった。
その人はより元気になった。
これからも色んな事がその人の身に起こるだろう。
でもきっと大丈夫だ。
世の中は自分が思っているよりずっと温かいと言う事を、その人はもう知っているから。