厄介なものと歩む
年齢を重ねてくると、自分の外見を思ったほど卑下しなくても良いような気がしてくるのは私だけだろうか。
自信が出てくるというのではない。余程の人でない限り、息を吞むような美女は世間一般にはいないし、もし仮にいたとしても、加齢に抗えるほどの美しさを備えた人にはそうそうお目にかかれないという事実がわかってくる。なあんだ、みんな同じや大したことないやんか、という妙な安心感が沸々と湧いてきて、焦りがドンドン薄らいでくる。
その精神状態で、自分の顔を世間の同年代のあの人この人と比べてみると、そこまで酷くないような気がしてくる。じゃあもうこれでもいいか、と思うようになる。
世の中の男性に対する関心も、向こうがこちらに向ける関心が薄らぐ速度と比例して薄らいでくる。いつしか彼らの関心を引く必要性を感じなくなっている。関心を引かなくて良いとなると、『なあんだ、頑張らなくても良いやんか』となる。その楽な状態の方が、自信のない外見に苦労して細工を施すよりも楽しいことに気付くと、もう戻れない。
連れ添って何十年となる夫に、『かわいいでしょアピール』をしてみたところで、なんにも良いことはない。下手したら気付いてさえもらえない。そこに怒りも湧かない。
夫からの愛情をどうでも良いものと思っているなんて、とんだ不届きな妻だ。どちらかというと、どうでも良いというより『私から愛することが出来ればそれでいい』という感覚が近い。心なしか、夫もその状態が心地良いように見える。
女性としては如何なものかと思うが、精神的には年々非常に楽になっていく。
それでも私の中からは、嫉妬の感情というのは相変わらず消えない。
誰かが自分のやりたいことと同じことで成功した。調子よく頑張っている。世間の注目を集めている。そんな話を聞くと、心は波立つ。穏やかではいられないし、焦りもする。
人は人、自分は自分なのだから、と自分に言い聞かせてはみても、うわべだけの納得感では焦る自分をなだめることは出来ない。
多分私はその人物のことを、『たいして自分とは変わらない程度の実力の持ち主だ』と思っていて、なんならすぐにでも追い越せる、いやもしかしたら周囲が気付いていないだけでもう既に追い越している、と根拠のない自信を持っているのだ。なのに自分がその人物より劣っていることを見せつけられるような現実に、苛立っているのだろう。
こんな筈じゃない、と。
嫉妬の感情というのは実に厄介なものだ。
嫉妬する自分を『ろくでもない奴』と批判し、蔑む。相手が自分より勝っていることを認めるのが、死ぬほど悔しい時もある。そんな事にくよくよしている時間があるなら、とっとと自分も行動を起こせばいい、と頭では分かっていても、荒れる心はどうしようもない。
顔面やスタイルに関して、この感情と長い間お付き合いしてきた。年齢を重ねてやっと、この肩の凝る感情を手放せるかと思ったのだが、お生憎様、まだまだ私の中にはこの厄介な感情がある。
多分、私が死ぬ時まである。
見方を変えれば、嫉妬するというのは己の向上心の表れとも言える。
今の自分では不満足で、もっとより良く在りたい。そして出来るだけ早く理想の自分に辿り着きたい。努力はしているが、残念なことにまだその時は来ていない。もしかしたら見当違いの努力をしているのかも知れない。もっと近道があるのかも知れない。
そんなどうしようもない焦りが、自らのささくれた感情の導火線に、薄笑いを浮かべながら火をつける。
その火は消したくても消せない。いや、もしかしたら私は消えないことを分かっていながら、自分を鼓舞するために敢えて火をつけているのかもしれない。
嫉妬が過ぎるのは良くない。しかし全くないのは人間として不自然である。
表に晒せば不細工で格好悪い。他人を戸惑わせ、傷つけることも分かっている。そんな馬鹿な真似はしない。
外には出さず、そっと自分の中でだけ、この炎を燃やす。いつか嫉妬される側になってやる、と思いながら、私はその火を黙って眺めている。
私がそんな気持ちで居るなんて、そばに居る夫ですら知らない。
私が、私の中でだけ、そっと嫉妬するのである。
嫉妬には『このままの自分ではいけない』という危機感も滲み出ている。
『私の歩んでいる道でいいのだろうか』という恐れ、自信のなさも潜んでいる。
それでも私はこの感情に振り回されて、歩みを止めることはない。
この厄介な感情も成長の糧にして、自分の生命が尽きるまで、ただひたすら我が道を行くだけである。