お寺のサキちゃん
滋賀県近江八幡市、琵琶湖の東岸に伊崎寺というお寺がある。ここは大津市坂本にある、比叡山延暦寺の支院である。ここ数年はコロナのせいで中止になっていたが、毎年8月1日には「伊崎の棹飛び」が行われることで有名だ。
「棹飛び」とは水面から数メートルの高さに突き出した、一枚の細長い板の先端から琵琶湖に飛び降りる、千日会の行事である。雄壮で、ちょっとスリリングで見ていて面白い。
私達家族が暮らしていたマンションに、この伊崎寺の修行僧のお世話をしているAさんという女性が住んでいた。このマンションはペットを飼うことが可能で、Aさん宅も一匹の雌の柴犬を飼っていた。
正確に言うとAさんの犬ではない。伊崎寺の番犬なのだが、夜にうっそうと茂った山の中にたった一匹で置いておくのが忍びないから、ということでAさんが毎日連れて帰っておられたのである。
伊崎寺の犬だからだろうか、名前を「サキちゃん」といった。
サキちゃんはとてもおとなしい子だった。番犬とは思えない。
全くと言っていいほど吠えない。ワンともスンとも言わない。
「サキちゃんって鳴くことありますか?」
と一度Aさんに聞いたら、
「インターホンが鳴った時に、ちょっと『ワン』って言うことがあるかな?ってくらい。鳴くより、”目で訴える”っていう感じなんです」
と笑っていらした。
そんな風に私とAさんが喋っていても、つぶらな瞳でこちらを見上げて尻尾をフリフリしながら黙っている。散歩紐を引っ張ったりしない。長くなるとお座りをして、首を傾げてじっとこちらを見ている。とても”良い子”なのだ。
「お利口さんやねえ」
と褒めたりすると、目がとても嬉しそうになり、ますます尻尾をフリフリしてくれる。
サキちゃんはウチの家族全員に対してフレンドリーであったが、中でも子供にとても懐いていた。子供が愛想のない高校生になっても、エレベーターで一緒になろうものなら喜んで膝に前足をトンっとついて、顔を見上げて尻尾をちぎれんばかりに振るらしかった。
「さっきサキちゃんに膝トンされたから、制服に毛ぇついてもうた」
そういう時、子供はこう言いながら嬉しそうに帰ってきた。
「いつも子供さんに飛びついちゃって、どうもすみません」
Aさんは子供の服が汚れることをしきりに申し訳ながったが、子供は大歓迎だったし、私も嫌だと思ったことなどなかった。
伊崎寺に『出勤』するときは、いつもAさんの車の助手席に据え付けられたサキちゃん専用シートに、ちょこんとお行儀よく座って出かけていく。Aさんはとてもおしゃれな方で、いつも素敵な格好をされていた。サキちゃんのシートも犬用とは思えないシックな良いデザインだったから、Aさんの服装とマッチしてこじゃれた雰囲気の一人と一匹に見えた。
サキちゃんの悩みはちょっと『太目ちゃん』であることだった。
夏などは散歩に行きたいのに、暑くて途中でへたり込んでしまう。
「散歩に行くと、口の悪い人がこの子を見て『デブ』なんて言うんですよ。可哀想でねえ」
Aさんが情けなさそうに言う横で、舌を出して身体を大きく上下させてハアハア言っているサキちゃんは、とてもしんどそうで気の毒だった。
サキちゃんが『太目ちゃん』になる原因は、檀家さんがくれる魅惑的な「おやつ」と、犬ながら女性が避けて通ることが出来ない「更年期」らしかった。
「サキちゃん、更年期頑張って一緒に乗り越えような」
と話しかけると、サキちゃんはハアハアしながら、それでも力なく尻尾を振ってくれるのだった。
ウチは引っ越し直前にはマンションの最古参の住人になっていた。他の部屋は次々と人が変わり、最近は転入や転出の挨拶もないことが多いせいで、殆どの人を知らなかった。
だが何人かの住人とは親しくさせてもらっていたので、引っ越しの際には挨拶をすることにした。Aさん宅もそのうちの一軒だった。
夫と二人でAさん宅を訪ねると、私達の声を聞いたサキちゃんが、ご主人より先に玄関に出てきた。やっぱり尻尾を振っている。
「実は、関東に引っ越すことになりまして」
そう告げるとAさんは
「え!お仕事で?まあーそう!寂しいわー」
ととても残念がって下さった。
「私も寂しいですー」
と言いながらサキちゃんの頭をなでなですると、黒いうるんだ瞳で私を見上げてくれる。
「サキちゃん、ありがとうね。元気でね」
Aさんと喋っている間中、サキちゃんはずっと尻尾を振りっぱなしだった。なんだか切なくなった。
こちらに来て、犬を散歩させている人が多いのに驚く。そして柴犬を連れている人を見ると、いつもサキちゃんを思い出す。
元気にしているかな。ダイエット、成功したかしら。
また会いたいねえ。