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忘れていたこと

Sさんが急に出社しなくなってから随分になる。本人は復帰する気満々だそうだが、お腹が大きくては今まで通りに勤務するわけにはいかないだろう。シフト表からも彼女の名前は外れてしまった。
彼女が急に出社しなくなったことで、レジ係は自動的に私一人となった。それまではチーフである彼女の指示をハイハイと聞いて手伝いをすれば良かったのだが、いきなりチーフに格上げである。給料が上がるわけでもボーナスが支給されるわけでもなく、めでたい事は何一つない。
おまけに急な休み方だったので、引き継ぎというものが全くない状態である。Sさんのこなしてくれていたチーフとしての仕事に加えて、いままでやっていた下っ端としての仕事もある。半人前の私には、レジ係として覚えなけければならないことも山ほどある。どうにかして欲しいくらい、忙しくなってしまった。

Sさんだったらこんな時、「大変なんです~」と言いながら色んな人に慰めてもらうことだろう。だが私はそういう風に素直に人に甘えられない人間である。おまけに喋り方とか振る舞いがとても落ち着いて見えるそうで、実際とはかけ離れている認識だが「この人大丈夫そう」と思われているらしい。
周囲は大丈夫と思うと放置し始める。今まで手を貸していてくれたことも、貸してくれなくなる。当たり前なのだが、私は更に忙しくなった。
そこへもってきて二月の末頃は姑のことでバタバタしたり、定期演奏会があったり、子供の引っ越しに関する色々があったりでクタクタになってしまっていた。

この歳になると、身体の疲れが出るのは実際に疲れるようなことをしてから随分時間が経ってからである。つまり私はここのところ疲労のピークにあった。
身体の疲労は心も疲れさせる。忙しくなると心に余裕がなくなる。私は次々と言い渡されるされる仕事に「ああ、これもか」と落胆し、うっかりミスをして注意されたりしては落ち込み、「こんな職場もうやめたい」とか「だいたい契約書には書いてないのに、なんでこんな仕事をやらないといけないんだ?ここってブラックだったんだ」とか「人が減ったのわかってるくせに、平気で今まで以上の量の仕事やらせるなんて、課長も課長だ」とかいう思いが脳内をグルグル回っていた。それで余計に疲れていた。

レジ係のローテーションを決める仕事も私に回ってきている。レジに入る人を時間ごとに決め、次の一週間分の一覧表を作成し、プリントアウトしてレジ台に貼り付けるまでが仕事だ。他にやる人がいないので今は私の仕事になってしまっている。
これが実はとても気を遣う仕事である。レジ係でない人に入ってもらう時は、「この時間レジに入ってもらっても良いですか?」といちいちお伺いを立てなければならない。発注作業や休憩の都合があるからだ。レジ係でない人はなるべくレジには入りたくないのが本音だから、あまりいい顔はされない。
Sさんだと可愛く「お願いします~」と手を合わせればみんなハイハイ、ということを聞いてくれるんだろうな、とおばさんのひがみ根性が顔を出すのを苦々しく思いながら、皆さんにお願いして回る。

しんどさがピークに達しようとしていた先日、レジ指導係のGさんが私の居るレジに来てくれた。レジ歴二十年以上の超ベテランで、本部から派遣されている人である。来るなり、
「最近、忙しいんじゃない?大丈夫?」
と声をかけられて、不覚にもちょっと涙腺が緩んでしまった。
「しんどい時はちゃんと声あげなきゃ。でないと『この人出来るんだな』って思われちゃうよ。まだ入社して一年にもならないのに、こんな業務量一人でこなせないって」
Gさんは私の肩をポンポン叩くと、レジローテーションに自分を入れることを提案してくれた。
「食品レジの繁忙日はだめだけど、あとはこっちに入れるから。他のレジに予定組まれてるとこも、変更してもらうからね」
Gさんが入ってくれるならみんなとても心強い。とても安心したし、おかげでレジローテーションが組みやすくなってとても有難かった。

昨日は出勤すると、Oさんの私宛のメモがレジ台に貼り付けてあった。
「○○の値札貼るの、課長に言われると思いますけど商品を出すのはまだ先なので、急ぎません。しんどかったら置いといて下さい。夜の学生バイトにやってもらいますから」
実は課長に出勤するなり「やってね!」と言われて、げーまたか、という気分になっていたところだった。ホッとした。
課長に見つからないように、メモをはがしてそっとポケットにしまった。

うっかりして、沢山の思いやりに恵まれていることを忘れてしまうところだった。みんなちゃんと見てくれているんだ。良い職場じゃないか、と思った。
この前までの自分はどこにいってしまったのだろう、と可笑しくなる。
疲れを貯めるとついネガティブモードになってしまう。今日は休みだ。夫も早朝から山に出かけたから、昼食の準備もしなくていい。
のんびり過ごそう。