『なります』と『ございます』
新人のIさんが入社して、約一週間が経った。
若いし以前経験があるとかで、レジの覚えは早い。まだまだ緊張気味ではあるが、接客にも随分慣れてきて下さっているようで頼もしい。
しかし今、彼女はある厚い壁にぶつかってお悩み中である。
『~でございます』がどうしても言えない、というのだ。
「舌を噛んじゃいそうです」
と真剣に困っている。
なし崩し的に新人教育を任されてはいるが、そもそも自分の技術が頼りないし、あまりギュウギュウ締め上げるようなことはしたくない。
言葉遣いについては気になる点があった場合は模範例を示し、
「次からはこのように言えると良いですね。ちょっと気にしてみて下さいね」
という具合にサラリと言うようにしている。
否定のメッセージを受け取ってやる気の出る人はいないだろう、と思うからだ。Iさんは真面目だし、『気にしてみて』と言えば本当に気にする人なので、それ以上は言わないことにしている。
例えばお釣りを現金で返す時、店のマニュアルでは先にお札をお客様の目の前で、
「お先に一千、二千・・・○○千円と」
と口に出して数えながらトレーに置き、次に
「○○円でございます。お確かめくださいませ」
と小銭をレシートの上に揃えて置くことになっている。
小銭は釣銭機から出たものを片手で軽く握るようにすると、綺麗に縦向けに並べることが出来る。お客様も取りやすく、こちらもざっとではあるが金種を目視で確認できるメリットがある。
レジ教育では一番最初に教わるルールだ。全店共通で、渡し間違いによるトラブルを防ぐ為と教えられた。
この時の『○○円でございます』を、Iさんはどうしても『○○円になります』と言ってしまうのだ。
前の職場ではこれで問題なかったらしいが、ウチの職場ではタブーである。
レジマニュアルにも『「なります」とは言わないように気をつけましょう』と記載がある。
別に『なります』と言ってしまったところで、お客様に渡すべきものがキチンと渡せていれば問題はないように思うのだが、他の従業員は皆『ございます』で統一している為、どうしても違和感を覚えてしまう。
もう一人の教育係である、"キチンとさん"のMさんからは、
「『なります』と言ってはダメです!『ございます』です!」
と厳しく言い渡されたとかで、それ以来Iさんはレジ台の目につくところに
『なります→× ございます→〇』
と書いた紙を貼り付けて、お客様が来ない間は必死でその紙に向かって
「ございます、ございます」
とブツブツやっている。
器用ではなさそうだが、つくづく真面目な人である。
「関西だとねえ、『千円になります』って言ったら、お客さんが『え!アンタ千円になってくれんの!それやったらそんなシケたこと言わんと、一億くらいになってよ~』って言われそうかも」
などと冗談を言ってIさんの緊張を解そうと試みたのだが、彼女は真面目な困り顔のままであった。
どうもやはり関西のノリは通じないらしい。その場に居合わせたDさんがクスクス笑いながら、助け舟を出してくれた。
「店としては『正しい日本語じゃないから使うな』ってことなんだろうね。ま、意味は通じてるし、言い間違えてもたいした失敗じゃないよ。気を付けていれば、そのうち慣れて言えるようになってくるって。堅苦しく考えなくても大丈夫だよ。金銭の授受は慎重にしないといけないけど、言葉は気楽に考えればいいから」
そう言われて、Iさんはいくらかホッとした表情になった。
私のくだらない冗談より、Dさんの励ましの方が余程、真面目なIさんの為になっているような気がする。
『なります』と聞いてもなんとも思わないお客様も多いだろう。
余程ぞんざいで不愛想なら別だが、店員の型通りの挨拶を『正しい日本語かどうか』なんて気にする人は圧倒的少数派に違いない。
それでもやはり不快に感じる方がある以上、『ございます』が適当な言い方なんだろう。
普段の生活ではあまり使わない言葉だから、すんなり口から出るようになるには、訓練が必要かもしれない。
自分は営業の現場に長く居たのであまり苦しむことはなかったが、言い慣れない人には難しいもののようだ。
まあ、何事も『慣れ』が大事だ。Iさんもそのうち当たり前のように『ございます』と言えるようになっていくだろう。
暇を見つけてはメモを睨みつけながら、ブツブツと『ございます』の練習をしているIさんの奮闘を、微笑ましく見守っている。