目を瞑って頂きたい
先月の、ある日のことである。
いつものように朝からレジに入っていると、一人の上品な風体の老婦人がやってきて、
「あのお、スイマセン。この前貰った靴なんですけど、サイズが合わなくて。返品とか交換とかして頂けるのかしら?」
と言いながら、申し訳なさそうに靴の箱を取り出し、レシートを示した。
お客様都合での返品と交換には、一定のルールがある。
お買い上げから一週間以内であることは絶対条件。靴なら外での使用をしていないことは当たり前である。
あとは値札などを外していないこと。セール品でないこと。靴の場合、外箱があること。
ざっとこんなところである。
お客様が示されたレシートの日付は三日前。外箱もある。これはいけるかな、と思って箱の蓋を外し、中の靴を見た瞬間、私は少し眉を顰めてしまった。
靴の形が明らかに変形し、型崩れしている。合わないサイズの靴に無理に足を突っ込むと、こうなる。
値札もない。
「あの、お客様。値札はいかがなさいましたか?」
敢えて型崩れのことは伏せたまま私が尋ねると、お客様は
「それがねえ、失くしちゃったのよ」
と甘えるような声を出した。
ほな、あかんがな。
内心呆れつつ、
「恐れ入りますが、値札を切られた時点で、返品交換はお断りしているんですけど」
あくまでも丁寧に言う。
「あらあ、そうなのね。知らなかったわ。なんとかならないかしら?レシートあるんだし・・・」
とお客様は大袈裟に嘆きつつ、粘る。
なかなかの名演技ではあるが、一向に心を動かされない。
レシートには値札の情報がある程度表示されているので、返品可能と思われたようだ。確かに応じる時もないではないが、この型崩れした靴を返品しようとは、厚かましいにもほどがあるというものだ。随分履いたんじゃないか?
しかし、一旦言葉を飲み込む。
さらに検品する為に靴を持ち上げて裏返してみて、私の疑念は決定的になった。
靴の裏側に無数の小さな砂粒がついている。踵はよく見ないと分からないが、アスファルトの地面ででも引っ搔いたのか、やや削れている。
左足の裏には石を踏んづけたような白っぽい傷がある。
絶対外履きしてるやん!
「これ外でご使用になられてますね?」
容疑者を尋問するベテラン刑事のように冷静に、私は彼女に告げた。
彼女は慌てて、
「いえ、履いてないわよ」
と見え透いた嘘をつくと、唇を尖らせて横を向いた。子供かい。
外で履かずに、どうやったらこんなに砂つくねん?この砂が目に入らぬか!!と言いたかったがぐっと抑え、
「ちょっとお待ち頂けますか?」
と言って棚から同じ商品の新品を持ってきて裏返し、お客様の前に二つを並べて置いた。
「これが同じ商品の新品でございます。ここの砂、踵の傷、ついてございませんのがお分かりいただけるかと思います。お外履きされました商品は値札が付いておりましても、返品交換は出来かねます」
決定的な物証を突き付けられて、彼女はぐうの音も出なくなったように見えた。
「あら、そう・・・履いてないんだけどなあ」
なんと、まだ粘る。この期に及んでまだ言うか。
私は慇懃な調子を崩さず、さらに追い討ちをかけた。
「私共は、次のお客様に気持ち良くお買い上げ頂ける、と判断したもののみ、返品交換を受け付けております。こちらの商品は生憎ですが、その基準を満たしておりません。恐れ入りますが、ご要望には添いかねます。申し訳ございません」
深く頭を下げる。
心の中で
『ンナロ―!外で履いた靴の返品できると思ってんのか!なめんなよ!』
と叫びつつも、表情は至って通常モードである。
私の方が余程演技達者?かもしれない。
老婦人は負けを悟ったようだった。
「出来ないのならしょうがないわねえ。分かりました。持って帰ります」
渋々と言った感じで靴を元の袋に戻す。
すごすごと帰りかけたご婦人は、未練がましく振り返ると、最後にこう告げて私を見た。
「これ、どうしたら良いのかしらね?」
私は曖昧に微笑んで、黙って頭を下げた。
メルカリで売るなり、お友達に差し上げるなり、お好きなようにして下さいませ。
そこまで面倒見きれません・・・というのは心の声である。
つい沸き起こる感情を表に出さず、店のルールを淡々と伝えて交渉するのは、慣れないと難しいものである。こちらが百パーセント正しいと分かっていても、敢えてその禁を破ってくるお客様には『何かある』と思って身構えるからだ。
必要なのは、なぜそういうルールになっているのか、の深いところでの理解だ。でないとお客様を説得できない。変な人にも太刀打ち出来ない。
商品知識や店のルールを自分なりにしっかり腹に落とした上で、丁寧に根気よくお客様を説得するのは、緊張感もあるけれど私にとって楽しくやりがいのある仕事である。
それでもちょっぴり毒を吐きたくなる時があるのは私も人間だから、ということで、目を瞑って頂きたい。