褒められ上手
私は褒められるのが苦手である。嫌いというのではなく、「苦手」である。背筋がムニュムニュして気持ち悪い感じがする。落ち着かない。お尻がモゾモゾしてこそばゆい。でも本心では嬉しい。
褒められるというのは、喜ばしいことだ。でも昔は「褒め殺し」なんてことが政治団体の圧力行動として取られていたりした。
私には「褒められる」ことに対して恐怖にも似た感覚がある。出来れば避けて通りたい。見て見ぬふりをしたい。
変な人だと自分でも思う。
この変な認識はどこからくるのだろう。
一つには、私が「日本人古来の『奥ゆかしさ』『謙譲の精神』」を重んずる考え方の人間であることが原因であると思う。
『奥ゆかしい』というのは特に日本の「ヤマトナデシコ」たる女性に向けた、最上の賛美の言葉である。「ヤマトナデシコ」たるものは自分を褒められて有頂天になったりしてはいけない。「まあ、そんな、私なんて、そこらの雑草さんと大して差はございませんことよ」という『シャナリシャナリさ加減』が求められる。暗に雑草さんを小馬鹿にしていても。
『謙譲の精神』は美しい大事な文化である。自分をへりくだって、相手を押し上げる。『本来へりくだる必要がない』と周囲に思われている人がへりくだると、更に素晴らしいものとなる。へりくだった人にはますます賞賛が寄せられる仕組みだ。
つまり私は雑草さんを小馬鹿にするようないけ好かない女であるにも関わらず、「実は私『ヤマトナデシコ』なんですのよ、有頂天になんてなりませんわオホホ」と今にも剥がれそうな化けの皮を上手く被ったつもりになっている。
そして「『私』がへりくだってるんでござあますのよ、この私ともあろうものが」と言わんばかりに上から目線の押しつけがましい、見掛け倒しの『謙譲の精神』とやらを一丁前に発揮している気になっている。
かなりイカレタ人間である。
もう一つは褒めてくれる人間に対して、「コイツはなんぞ腹に一物持ってるのではないか、何か魂胆があって私を賛美するのではないか」と疑ってかかる癖がどうにも拭い去れないからである。
これには、私自身がお世辞が言えない人間であることも大きく関係している。近しい人にも呆れられるくらい、本心がむき出しになってしまうので、たいして綺麗でないものに「まあ綺麗」といってみたり、全然立派じゃないものを「ご立派ですね」と褒めたりすることは出来ない。これは腹の中で「たいして綺麗ちゃうやんけ」と思っている自分が「嘘つくんじゃねーよ!」と自分に言っているから気持ち悪いのであり、「この程度で立派とかふざけんな」と思っているから言葉が上滑りするのである。
そして相手に褒められると気持ち悪いのは、「自分がこうやって腹の中で思っていることを褒めている相手も思っているのだ」と無意識に判断しているということであり、相手を素直に信用できない、臆病で心の狭い人間である!ということである。
もう一つは「価値観の押しつけが嫌い」であることだろうか。尤もこれが好きな人など居ないだろうが、見方を変えれば「相手の意見を『価値観の押しつけ』と捉えてしまう心の癖がある」「自分に自信がない」「自分で自分を認めていない」ということだと思う。
「相手の意見」として、自分を褒めてくれるという考え方はあっても良い筈だ。逆に批判する意見があっても良いのだから。相手の考え方はコントロールできないので、当たり前のことである。が、これを私は受け入れることが、まだちゃんとできていないのだと思う。
そしてもっと厄介なことに、私にも人間としての「承認要求」が当たり前に存在する。いっぱいいっぱい満たしてあげてきているつもりだが、私の「承認要求池」はまだまだ半分程度しか水が溜まっていない。この承認要求を満たすことが出来るのは自分でしかない。生育過程で私のこの池はかなり干からびてカラッカラになって底にヒビが入ってしまっていた為、なかなかいっぱいにするのは大変なのだが、ささやかな潤いを焦らず少しずつこの池に日々注ぎ続けている。
おかげさまで随分と自分が変化したのを感じるようになった。量は少なくても、この池に水が入っているのと入っていないのとでは大違いである。
「褒められ上手」は私の憧れであるが、そうなるにはもうしばらく時間がかかりそうだ。
こうやってゆっくり歩んでいく自分もまたよし、である。