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サイレンの記憶

子供の頃、母方の祖母の家で高校野球を観ていると、祖母が決まって席を外す瞬間があることに気付いた。試合開始と終了の、サイレンが鳴る前である。
試合開始の為に会場がわさわさした雰囲気になってきたり、終了の気配が色濃くなると、祖母は必ずと言って良いほど『よいしょ』と立ち上がって、どこかへ行ってしまうのだった。
始めのうちは、おばあちゃんも用事があるのだ、と思ってなんとも思っていなかったのだが、あまりにも毎度毎度のことなので、ある時不思議に思って訳を尋ねてみた。
すると、
「あのサイレンな、空襲警報と同じ音やから、ドキドキして落ち着かへんねん。聞くの、嫌やねん」
と苦笑いしながら祖母が言ったので、あまりの意外さに驚いた。

当時小学生だった私にとって、第二次世界大戦は歴史上の出来事であり、自分とはあまり関係ない、遠い昔に起こった事だった。
父方の祖父が沖縄戦で亡くなって、その後祖母が非常に苦労した、ということは耳にタコができるほど聞かされていたし、親族の中には南方戦線から運よく帰還した、という人も居て、そういう話はごまんと聞いてはいた。
だが、直接自分と会話を交わしたことのある人は僅かだったから、そういう話もまた聞きで、あまり実感を伴っていなかった。おとぎ話に近く、現実に起こった事、という感じはなかった。
まだ親に守られるだけの存在である子供だったから、親子の絆とか、子供への愛とか、そういったものを自分事として感じることも出来なかった。

だから、普段は陽気な、戦争経験者ということをあまり感じさせない祖母から、そんなネガティブな記憶の片鱗を聞かされて、私は面食らってしまった。
しかし、子供の無邪気で残酷な好奇心から、訊かずにはおれなかった。
「空襲警報って、あんな音なん?」
すると普段はニコニコしている祖母が真面目な顔つきになって、
「そうやで。あれが鳴るとな、アメリカ軍の戦闘機が来ますよ、爆弾落としますよ、っていうことなんや。赤ちゃん抱えてな、近所の防空壕に大急ぎで入るんや。みんなぎゅうぎゅう詰めや。黙ってじいっとな、戦闘機が行ってしまうのを待つんや。だからあの音を聴くと、今でもドキドキするんや」
と珍しく、戦争の記憶を細かく語ってくれた。

幼かった叔母が『てっきらいちゅう』(敵機来襲)と回らぬ舌で言うのが常だったこと。
防空壕で赤ん坊が泣くと、身の縮む思いだったこと。早く行ってしまえ、とずっと祈っていたこと。
玉音放送を聞いた時、日本が負けて悔しいという思いは全然湧かず、
『ああ、これで空襲警報が鳴ることはもうないんだ』
と心から嬉しかったこと。
そんな話をポツポツと遠い目をして語る祖母は、それまで私の知っていた『陽気なおばあちゃん』とは別人のようだった。

それまでは高校野球のサイレンは球児たちのドラマの始まりと終わりを告げる、感動を呼び起こすものなんだ、という認識を持っていた。だから子供心にワクワクして聞いていた。
しかしその時に見た祖母の、心から嫌そうな顔は印象的で、それ以来私は暫くの間、このサイレンを聞くと何か祖母に悪いことをしているような気分になるようになった。

今は全然そんなことはない。
昔は『憧れの凄いお兄ちゃん達』が、やがて『近所の〇〇君』になり、『後輩の誰それ』になり、『息子のお友達』になっていっても、高校球児の一生懸命な活躍はやはり胸を打つ。
スポーツ観戦はあまり好きではないけれど、高校野球は好きだ。
試合開始と終了のサイレンも、感慨深く聞いている。もう重い気分になることはない。

それでもやはり、あの時の祖母の苦しそうな困ったように笑った顔は、今でも忘れられない。
「あんたらは平和な時代に生まれて、ホンマに良かったわ。戦争なんて、経験せんでもええ」
この時期になると、今でもあの時に祖母がしみじみと語ってくれた言葉を思い出すことがある。
今日は広島原爆の日。