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それぞれの「美味しい」

同僚のSさんとOさんが口を揃えて「美味しい」というラーメン屋がウチのすぐ近所にある。二人は必ず月に一、二度待ち合わせて、一緒に食べに行くそうだ。
「近いなら是非一度は行ってみて下さい。きっと美味しくて感動しますよ!」
と二人から言われていた。
五十代女性である私が、一人でラーメン屋に入るのはちょっと勇気が必要だと思う。しかしこの日は夫が正月休み中で、運よく誘うことが出来た。それにとても寒い日で、丁度二人ともラーメンでも食べてお腹から温まりたい気分になっていた。じゃあちょっと行ってみようか、と言うことになった。
夫にとっては北海道旅行以来四か月ぶり、私は実に十年以上ぶりに口にするラーメンである。

二人共同じ『ネギチャーシュー麵』に煮卵をトッピングで追加して頼んだ。
若くて口数の少ない店主が運んできたラーメンは、細くてやや硬めの縮れ麺に塩系のスープが良く絡み、とても美味しかった。自家製だというチャーシューは、まるで花びらみたいにズラッと鉢の縁に沿って並べられている。これだけでお腹いっぱいになりそうだ。中央には白髪ネギがうず高く積まれ、上からネギ油がかけられていた。大きめに切った焼き海苔も添えられている。煮卵は良い色あんばいに仕上がっている。
どれもとても美味しくて、夫婦揃って大変満足して帰ってきた。が、帰宅後どちらからともなく
「美味しかったけど、なんか違うなあ」
と言う話になった。

本当に美味しかった。それは間違いない。間違いないのだが、同僚二人が言うように「感動する」レベルかというとそうでもなかった。
そんなに偉そうに言うけれど、じゃああんたたちの感動するレベルのラーメンってどんな味?と聞かれたら答えに詰まる。そもそもラーメンに「感動」を求めていない時点で彼女たちと一致する感想は持ち得ないのかも知れないと思う。
つまり、「こんなもんより美味い食べ物を自分は知ってる」という上から目線ではなく、「ほー若い子はこういう味に感動すんねんなあ」とお茶でもすすりながら縁側から眺めている感じの感想を持っているのだ。

個人差はあるだろうが、この年齢になるともう塩や油のキツイ物は口も舌も胃も腸も受け付けない。だから料理の味を表現する「あっさり」という言葉により魅力を感じるようになってしまっている。
大きなハンバーガーに思い切りかぶりつきたい年代と、こういう状態の私達では嗜好が違って当然だろう。
今は二十代の彼女たちにもいずれ、「ああ今は欲しいと思わないけど、あのラーメン若い頃はよく食べてたなあ」と回想する時が来るんだろうなあと思う。

私達の子供が育ち盛りの頃も、親子間でこういう嗜好ギャップは多少あった。
でもその頃は私達夫婦もまだラーメンくらい食べたいと思える年齢だったし、中学生高校生の旺盛な「脂欲」にはついていけなかったにしても、それなりに子供の期待に応えるメニューが食卓に並んでいた。
ところが子供が家を出てしまうと夫婦二人だけになり、次第によく言えば「健康志向の」悪く言えば「パワーの出づらい」食生活になってしまっている。
けっして禅僧のような食事ではないけれど、若い子好みではないだろう。我が家で揚げ物が滅多に食卓に登場しないのは、私の片付けの都合が二割、夫婦の嗜好の都合が八割と言ったところである。

テレビショッピングではないが、「美味しい」と言うのは『あくまでも個人の感想』である。それぞれ皆違うのが当たり前だ。
他人と同じ感想を共有できることは確かに嬉しい。「その通り!」と言われると気分があがる。だがその通りのこともあれば、そうでないこともある。
そして感想は変化する。若い頃なら「美味しいよねえ!」と相槌を打てたのが、年齢を経るとそうは言えなくなったりする。ラーメンの味はずっと同じなのに。
寂しいような気もするが、しょうがないことだ。

こんなことを書きながら、つい今夜の夕飯も煮物にしようと考えてしまう、どんどん「あっさり好み」になっていく私である。