帰る場所
今日、姑が老健施設に入る。今回も三ヶ月の期間限定だ。もう四度目の入所である。
最初の入所の際は『私はそんな姥捨て山にお世話になるような、情けない老人ではない』と鼻息荒く抵抗し、姉も夫も随分手を焼いたものだったが、回を重ねるごとにその勢いは少しずつ影を潜めていった。
初めて老健から退所してきた日、家に入った姑は大きく息をついて、
「ああ、やっぱり家はエエなあ!不便も多いし、ご飯の準備も全部自分でせなあかんけど、自分の家は遠慮がのうてエエわ!」
と心から嬉しそうに言っていた。
その日から姑はなかなか頑張っていた、と思う。しかし調理をしようとして重いまな板を足の上に落としてしまったり、使用中に洗濯機の蓋が開かなくなる、といった小さなトラブルが続き、その度に嫌気が差していたようだった。
姑宅のまな板は木製のかなり大きなもので、私が嫁に来た当時から使っているものである。もういい加減、捨てるように姉も言っていたらしいのだが、
「まだ使える」
と頑なに拒み、ずっと使い続けていたのだった。
しかしこのまな板、非常に重い。私でも『うんしょ』と言わねば持ち上げられないくらいのものである。
握力の弱った姑の手におえるものではない。落とすのは当然だろうと思われた。
落ちてくるまな板を避ける瞬発力も、今の姑にあろう筈はない。
骨は折れなかったが、酷い内出血は長い間治らなかった。
洗濯機の蓋は単純な話だった。
近所の馴染みの電器屋に電話をした姑は、電器屋の丁寧な説明で自分の操作でロックをかけていたことに気付き、無事に蓋を開けることが出来た。
なんでもないように見えるこの二つの小さな『事件』は、姑の自尊心を打ちのめすのには十分過ぎたようだ。
電話する度に
「こんなことばっかり。もう嫌になるわ」
と愚痴をこぼすようになった。
「私もそんなことありますよ」
と慰めはしたものの、姑の心を元気づけるには、あまりにもパワーが足りなかった。
こういったことを繰り返すうち、姑の心に変化が現れたようだった。
あんなに嫌がっていた訪問看護の医師や看護師さんが来てくれるのを、心待ちにするようになった。
「家の中を勝手に触られるのは気持ちエエもんやない」
と嫌がっていた、掃除や買い物に来てくれるヘルパーさんを
「気持ちのエエ子でなあ。くるくるよう働いてくれるねん。有難いわ」
と喜ぶようになった。
姉が手配した宅配弁当も、
「家の中に知らん人がずかずか入ってくるなんて、考えられへん。受け取りに自分が玄関に出る」
と言っていたのに
「もう、容器を玄関に出しに行くのが辛い。中まで来てもうた方がエエ」
と言うようになり、今は台所のテーブルまで、来てもらっている。
そして、最近では
「今度はいつ老健に”帰る”んや?」
と訊いてくるようになった。
夫は
「ついに白旗やな」
なんてにべもないが、私はちょっと悲しい気分で姑の言葉を聞いている。
あれだけ『自分の家は良い』と言っていたのに、今や姑にとっては自分の家の方が仮の住まいで、帰るべきところが老健、という風になってしまっているのだ。
本人は気付いていないかも知れないが。
子供としては、より安全な環境に居てくれる方が安心で嬉しい。
しかし、ここでは姑は『家の主』ではない。大勢いる共同生活者の一人に過ぎない。自分の決めたのではないルールに縛られ、不満なことがあっても我慢せねばならないこともある。
それが分かっていて、敢えて”帰る”という姑を、弱っていく自分を受け入れるとはこういうことなのだろうか、と思いつつ見ている。
今日は夫が付き添う。
「おばあも弱ってきよったな」
先日、二人で入所の書類を確認していると、夫がぽつんと言った。
私は黙って頷いた。暫くの間、二人共無言だった。
周りの私達も、少しずつ姑の老いを受け入れていっているのだと思う。
幸い、今日は良い天気で温かい。
寒がりの姑には有難い天気になって良かった。
おかあさん、また三か月後にね。