心からダラダラしたい
私がこの世で一番苦手とすることは、
『何もしないでダラダラすること』
である。
何もしないでいると、罪悪感が静かに胸の中に押し寄せてくる。昔ほどは酷くなくなったとは思うけれど、やっぱり今でも相変わらずだ。
テレビも観ず、本や漫画も読まず、家事もしない。動かず、食べず、じっとする。すると妙な焦りみたいな感覚が、頭の中にもわーっと湧き上がってくる。
『そんなにダラダラしてて良いのか?』
という声が、心のどこかで木霊している気がする。
朝、夫を送り出し、掃除をし、皿を洗う。買い物に必要なものを書き出してメモを作る。買い物がてら散歩に行き、運動することも忘れない。
一日の行動予定は、埋めようと思えば隙間なく埋めることが出来る。
そして埋まっている方が安心してしまう。
『もう、こんなに忙しくては休んでいる暇がないよ。困ったなあ』
と渋面を作りながら、実はホッとしている。
いざ、『休んでいる暇』が出来てしまったら、何をして良いのか、『休む』にはどうしたら良いのか、分かっていないからである。
分からない自分を直視するのが恐ろしい、ということも出来よう。
『のんびりする』にも、例えば温泉に入るとか、音楽を聴くとか、好きなものを食べるとか、何かしらの”行動”を伴わなければいけないような気がしてしまう。アイツはリラックスしている、と”周囲”から『認定』されるような行動をしていないと、『のんびり』していないような気になってしまう。
『何もせず』、ただ『のんびりと』、身体を『休めて』いれば良いのに、そうすることに物凄い戸惑いと恐怖に似た感覚を覚えてしまうのだ。
貧乏性というヤツか。
リラックスするということに、常に何かしらの行動を求めてしまうのは、『今私はゆったりして快適だ、良いことをしているんだ、私の身体と心は喜んでいる』と感じ取れる感覚が、ちゃんと備わっていないということなんだと思う。
外側から見て『ああ、リラックスしているんだね』と認定されることばかり、気にしている気がする。だからソワソワする。
どうして私がそんな風に、常にゴキブリみたいにカサカサしていないと落ち着かない人間になってしまったのか、というと
「ちゃんとしなさい」「ダラダラしなさんな」
という、子供の頃から周りの大人たちに言われた言葉が、大きく影響しているに違いない。
私も子供に何度も言ってしまった言葉である。
ダラダラすることは『悪いこと』『してはいけないこと』という、物凄く強い刷り込みがあり、身体が勝手にそうしないようにするのである。
だからダラダラしたい時に、仕方が分からない。
働くべき時にダラダラするのはいけない事ではあるが、何もしなくて良い時は、別にダラダラしたって良い。
なのに、自分で自動的に
「あ、私は今悪いことをしようとしている。こりゃいかん」
とダラダラしようとする自分を引き留めようと、心が動く。
だからダラダラしようとすると、後ろめたい気分になるし、実際にダラダラすると、どうしようもない罪悪感が自分を満たす。
つまり身体は休んでいても、心が休まっていない。
働き者、と言えば聞こえは良い。
しかし誰でも適度に休まないと身体を壊してしまう。
ダラダラするのが必要な時にダラダラ出来ないのは、人間として致命的な欠陥だと思う。
身体を壊して休まざるを得なくなれば、結果的にダラダラすることになってしまうのだから、猛烈にダウンしてしまう前に適度にダラダラしておいた方が、周りも迷惑しないで済む。
そう分かっているのに、なかなか上手にダラダラ出来ない。
つまりダラダラのコントロールが下手なのである。
いつになったら、心から晴れ晴れとダラダラ出来る日が来るのだろう。
幼少期からの言葉掛けって恐ろしいもんだ、と思いつつ、落ち着かない気分でダラダラしている。
私は怠けたいのか、せこせこ働きたいのか、どっちでもないのか。それすらも自分でよく分かっていないように思う。なんてこったい。
まあ少なくとも、自己観察と分析は出来ているようだから、焦らずその時の来るのをダラダラ待つしかないか。