見出し画像

絶交やで

夫は在宅勤務日や早帰りの日、休日などの夕方に、近所にランニングをしに出掛けることが多い。関東に来てからというもの、気軽に行ける山は皆かなり遠く、趣味の山登りがなかなか出来ずにいる為、どうしても身体がなまってしまうのだという。
幸い、この街には珍しくすぐ近くに自然豊かな地域があり、そこに上手い具合に交通量が少なく風光明媚な、ランニングにおあつらえ向きの道が通っている。安心して気持ちよく走れるとあって、ランナーはいつも多いそうだが、ひとっぱしりしてきた後はとても満足そうである。

但しここで問題がある。
夫はちょっと異常なほどの汗かきなのだ。
山登りに行ってくると、リュックのベルト、帽子、タオル、肌着等々、何もかもが塩をふいている。洗濯するのが物凄く大変である。
でも山登りの場合は、車に乗り込んでしまえばマイワールド。どんなに汗臭かろうが、誰も文句を言わない。自分の匂いは自分でわからないから、自分が困ることはない。
しかしランニングは違う。すれ違うランナーや通行人に不快な思いをさせてしまう可能性が高い。
そこで夫はなるべく体温を下げる効果のあるウエアを着て行こうとする。

このウエアはランニング専用ではなく、山登りと兼用である。
山登り用のウエアも、無駄な体力の消費を抑える為、なるべく汗をかかず、かいても素早く乾くようになっている。
こういう機能を備えようと思うと、どうしても生地が薄くなる。
しかし夫の山登りの荷物は重い。山頂でアマチュア無線をやる為に、無線の機械一式を担いでいくからだ。いつも子供一人分くらいの重さになる。
薄い生地を、この重量のある荷物を入れたリュックの肩ベルトで何度も擦ると、当然鎖骨との間で挟まれて更に薄くなっていく。
最終的には穴が開く。
このシャツが最終段階に到達してから、もう半年くらい経っている。

当初、夫は
「繕ってくれ」
と言ってこのシャツを持ってきた。
しかし穴の大きさは直径五センチくらいある。もう『穴が開いている』というより、『破れている』といった方が正しいくらいだった。
「もう捨てたら?新しいの買いなよ」
百人いたら百人がそういう言葉を言ってみた。
ここで
「そうやな」
とは言わないのが天邪鬼な我が夫である。

「なんでや。繕ったら着れるやんか」
と猛烈に抗議する。いつものことながら、なんて無駄な労力をくだらないことに使うんだろう、と呆れた。
第一、こんな超絶薄い生地、繕えない。私の洋裁の腕を知っている癖に何を言うか。何より、物凄く面倒くさい。
裁縫箱の中に、子供が幼稚園の時に買った車のアップリケがあったので、
「こんな薄い生地、普通に繕ったら益々穴が大きくなるよ。これ貼り付ける?」
と冗談で言ったら、
「アホか。もうええわ、自分でやる」
と夫は私からシャツをひったくり、自分の部屋で何かゴソゴソしていた。
納得いくように、自分で好きにして下さい。
私は夕飯の支度に取り掛かった。

暫くして、夫はニコニコして台所にいる私のところにやってくると、
「見ろ!修繕したぞ。まだまだ着れる」
と肩の部分を示した。
確かに、あの大きな穴はなくなっている。でも全然凄いとは思わない。どうやったのか、全く興味も湧かない。どうでも良い。
「ふーん。じゃあ良いんとちゃう」
と極めて冷静に返事する。
「これな、裏から黒いテープ貼り付けてん」
は?
「全く分からんやろ」
夫は自慢げである。
「まあ遠目にはね。洗濯したら剥がれるやん」
「ええねん」
さいですか。
本当にどうでも良い。
こんなくだらないやり取りを何度か繰り返していくうち、穴は更に大きくなっていった。
そしてついに、テープでは補修できない大きさに到達してしまった。

昨日、
「走って来るわ」
という夫を見送りに玄関に出ると、夫は肩に大きな穴が開いたままのシャツを平然と着ていた。
流石に息を呑んだ。
「それ、着て行くのん?」
「うん。変か?」
変に決まっとる。
「やめてよ」
「なんでや」
ああ、始まった。もういい。
「まあ、あんたが恥ずかしくないならええよ。但し、明るいうちに家に戻ってこんといてな。暗くなってから、人に会わへんようにして戻って来てな。この家にこんな変な人が住んでるなんて、思われたくないから。着て行ったら絶交やで」
冷たく言い放つと、私は玄関を離れた。この変人め。やってられない。

夫は暫く思案していたが、二階に上がるとまたゴソゴソしていた。
もう何も言う気になれず、知らん顔をしていると
「これにしたわ」
と言って、新しいシャツを着て出かけていった。
あるんかい。さっさと着ろや。

ああ不毛だなあ、と思いつつ、夫との日々は過ぎていく。
あのシャツ、絶対捨てたんねん。









いいなと思ったら応援しよう!

在間 ミツル
山崎豊子さんが目標です。資料の購入や、取材の為の移動費に使わせて頂きます。