電話は恐ろしい
先週のある朝のことである。
売り場内の鏡を全て拭き終えて、レジの中を掃除していると、内線電話が鳴った。
雨だからだろう、客足はまばらである。長引かなければ大丈夫かな、と思い、受話器を取った。
「はい、靴服飾の在間です」
「一人なのにごめんね。今電話、出られそう?」
事務所のベテラン社員、Fさんだ。
「空いてますから、大丈夫ですよ。お客様ですか?」
「そうなの。でもなんだかねえ、仰ってることがちょっと要領を得ないって言うか。リュックが欲しいってのは間違いなさそうなんだけど、聞いてもらって良い?」
微かに嫌な予感が過ったが、事務所では商品のお問い合わせには応じられない。
「良いです、代わって下さい」
「ごめんねえ。お願いします」
Fさんと代わって電話に出たのは、高齢の男性だった。
「あのー、お宅は✕✕ストアだよねえ?」
男性はいきなり大きな声で、某有名靴販売チェーン店の名前を告げた。
外線を取った時、Fさんが絶対に店名を名乗っている筈である。なんでそうなるかな。
思わずズッコケながら、
「いえ、当店は○○でございますが」
と言うと、
「あ、そうなんだ。でもお宅もあれだねえ、リュック売ってるよねえ?」
と仰る。
✕✕ストアにはリュックはないと思うが・・・。
ってオッサン、店はどこでもエエんかい。
気を取り直して、言葉を続ける。
「はい、お取り扱いございます」
「んじゃさ、迷彩柄のリュック、欲しいんだけど。あるかな?」
意外な単語に、一瞬目をパチクリさせてしまう。迷彩柄お好きなのかしらん?
「はい、数は多くないですが、いくつかお取り扱いございます。お探しのリュックは紳士用でよろしかったですか?」
一応、これは伺うのが鉄則である。プレゼントなんかだと、ご本人とは異なる性別の商品をお探しのこともあるからだ。
男性はバカにしたように、カラカラと笑った。
「オレが使うんだからよお、紳士用に決まってんじゃん!婦人用の迷彩柄なんてねえだろう?」
誰が使うんか、こっちは知らんがな。
それにオッサン、残念やったなあ。婦人用もあんねんよ。
と心であっかんべーをしておいて、しれっと営業トークに戻る。
「失礼致しました」
「ま、いいよ。で、それ大きさはどれくらい?」
仕入れ担当のMさんなら即答出来るのだろうが、レジ係の私はそこまで知らない。レジを離れて確認にいかねばならない。
「少々お待ち頂けますか?今、商品を見て参りますので」
私がそう言うと、男性は被せるように
「いやいや、そこまでしなくていいよ。ザックリ分かれば良いんだ」
と言う。
気遣いは有難いが、リュックは三十リットルに満たないものもあれば、四十リットルを越えるものもある。『ザックリ』なんて、無理である。
こういう時はこの質問をすることにしている。
「どういったことにお使いになられますか?」
今回も私は男性にこう、問うてみた。
するとこんな答えが返ってきた。
「ああ、デイケアに持って行くんだよ!身の回りの荷物なんかを、ちょこっと入れるんだ」
またまた予想外の単語が飛び出す。マスクの内側でニヤニヤしてしまった。なんでデイケアに迷彩柄?ますますわからない。
柄はともかく、デイケア用なら大きさは大体分かる。姑ので見慣れているから、どんと来いだ。
そんな大きなものは要らないはずだが、迷彩柄のはかなり大きい。
オッサン、残念。
「でしたら、迷彩柄のは大きすぎますね。申し訳ございません」
「そうか、ねえんだな」
うん、ねえの。ごめんね。
なんだかこのオッサンが、可愛くなってきてしまった。
と、男性がまた喋りだした。
「そっち行ったら、沢山種類あるんだな?」
「はい、ございますよ。迷彩柄は大きめのが一つしかございませんが」
このパターンの人に有りがちな、『聞いたこと一瞬で忘却の彼方』は、不毛なトラブルの素である。徹底的に釘を刺しておかねばならない。
「ああ、良いんだよ。じゃあ、見に行って決めるか。あんた、忙しいのに悪かったな」
おや、こっちの愛が通じたか?
「とんでもございません。ご来店お待ちしております」
「ああ、わかった。そうするよ。✕✕ストアかあ~、しばらく行ってないなあ!まあ駅に行くついでがあるから、寄らせてもらうよ」
いかん、やっぱり忘却の彼方である。しかも肝心の店名。
「お客様、こちらは○○でございます」
別に来てくれなくても良いんだけど、✕✕ストアで『話が違う』と暴れたら向こうが気の毒なので、一応訂正を試みる。
男性は声をあげて笑うと、こう言った。
「アハハ、そうか。ま、どっちでも良いや!じゃあ、ありがとう!」
ガチャンと電話が荒っぽく切られた。
私の貴重な数分間は一体なんだったのだろう。
さあ、果たしてご来店めさるか?
これからの数日間がちょっと楽しみなような、怖いような気分である。
それにしても、やっぱり電話は恐ろしい。