引き時
指揮者の秋山和慶さんが亡くなった。
つい最近まで舞台に立っておられたように思ったので、急な知らせに驚いてしまった。吹奏楽の指揮をされることも多かったからか、勝手に親近感を抱いていた。
享年八十四歳とのこと。ご冥福をお祈りする。
もう随分前になるが、とある高齢のプロ奏者がオーケストラの本番直前に突然亡くなり、周囲がとても慌てた、という話を聞いたことがある。
この奏者、以前所属していた楽団の音楽監督の知り合いだった。
「ちょっと前まで元気そうにしていたんだけどね。びっくりしたよ。とても残念だ」
と仰っていたのを覚えている。
そんなこともあるんだ、と驚いた。
師匠のK先生もこの奏者の知り合いだったのだが、訃報に接して仰ったことは、この音楽監督とは全く違っていた。
「気の毒とは思いますが、そういう亡くなり方は周りが迷惑しますよね。自分はそうならないうちに現役を引退するつもりです」
言わんこっちゃない、とでも言いたそうな口調だった。
何か納得できない気持ちになった。
先生は冷たい人ではない。プロとして培ってきた経験による、先生なりの考え方があるのだろう。しかし、いつもは目上の人に敬意を忘れない先生の言葉とは思えなかった。
そこでこう尋ねてみた。
「迷惑、かも知れませんが・・・どんな世界でも、元気で長く続けられるのは素晴らしいことですよねえ。音楽は年齢や経験を重ねないと出せない表現というのもあるように思いますし、長く続けるのは悪いことではないと思いますが、素人考えなんでしょうか?みんな生身の人間、アクシデントは年齢に関係なく起こり得ると思いますし・・・」
先生は確かに、と頷きながら
「でもね、万が一のことを考えて早めに身を引いておく方が、こういう迷惑をかける確率は減らせる、と”僕は”思います。年齢を重ねるほど、当然誰でもリスクは上がる訳ですから・・・現場は待ったなしですからね。あまり直前だと代わりが探せないから、大変なんですよ」
と腕組みをした。
やはり様々な現場を乗り越えてこられた先生の、経験からのご意見なのだな、とやっと腑に落ちた。
先生は続けてこうも仰った。
「後進に道を譲る、というのも僕らの大切な仕事なんですよ。
一人がいつまでも現役で居るということは、実力的にそのポジションに行ける若い人材が、出られないまま控えている、ということでもあるんです。音楽業界の発展の為には、そういう人をなるべく早く表舞台に出してあげねばなりません。
どこで『もうここまで』と思うかは人それぞれです。
プロオケでは定年もありますが、奏者としての引き時は自分で決めなければなりません。難しいですけどね。僕もいずれ、決断しなければならない時が必ず来ます」
ちょっと寂しそうな笑顔を見せながらそう言い切ると、ふーっとため息をついて天井を仰いだ。
何も言えなくなってしまった。
どこを自らの引き時と決めるか。何を以てそう決断するか。難しい問題だと思う。
『もう十分やった』と思えるかどうかという、自分の納得感は最も優先されるべきだろう。
どこまでやったら踏ん切りがつくか。明確な数値で終わりを示せない芸術は、自分の内心でラインをここだ、と決めるしかない。自然に決められれば良いが、半ば無理矢理、諦めに似た心境で決めることもあるのかも知れないと思うと、残酷なような気もする。
けれど自分がその場所に居続けることによる周囲の影響を想像しつつ、必ずいつかは思い切らねばならない。
起こり得る可能性を一つ一つ挙げて検証するのも、自分だけである。
誰も『その時』を教えてはくれない。
あまりにも難しく、孤独な決断だと思う。この決断が一人で出来る、というのも芸術家たる条件なのだろうか。
先生の足元にも及ばないけれど、自分も関わる様々な場の、引き時について考えを巡らすことはある。
こと音楽に限らない。
いつまで身体が自由に動くかは一番大きな問題だ。
自分の意見があるのは良いが、主張し過ぎて老害になっていないか。それを判断する冷静で客観的な目線を忘れないようにすることも必要だ。
いざ、引き時を決めたらどう引くか。
パッといきなり引くか、徐々に引いていくか。引き方だって色々だ。
考えなければいけないことは山ほどある。
けど、ただ頭を悩ませていてもしょうがない。
今目の前のことに懸命に取り組んで入れば、自ずと引き時も引き方も分かってくるんだろうと思う。
分からない未来を勝手に想像して心配するのは時間の無駄だ。
どんな引き時にするか、という意識を頭の片隅に常に置きながら、今を精一杯生きていくつもりである。