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取り敢えずやってみる

何か新しいことを始めようとするのは、多かれ少なかれ勇気が必要である。
だからといって、自分に言い訳をして逃げ続け、グダグダとただ何もせずにいるというのは、人生に於ける時間の無駄遣いだ。
本人がそのグダグダ時間を苦にせず、楽しんでいるようならそれはそれでいい。本人の自由である。
行動を起こすことに対して勇気が出ない、どうしても最初の一歩が踏み出せない、そういう自分が嫌になる、苦しいという時は、どうしてなのかを自分の胸に手を当てて問うてみる必要がある。

このブレーキは一見、外的要因の何かがかけているように思える。
例えば、事業を一から起こそうとしている人が、『他の準備はしてきたけれど、資金はこれで足りるのか』と心配になって、なかなか起業に踏み切れないでいるとする。
この場合、蓄えが心許ないことが、この人の起業の足枷になっているように見える。
しかし、実際はそうではない。
この人の『心配』こそが、ブレーキになっているのである。

向こう見ずになるのが正解、というのではない。
ある程度のリスクを背負う覚悟を持たなければ、新しいことには飛び込めない。
飛び込む対象によっては、名勝東尋坊の崖から飛び降りるくらいの覚悟が必要な時もあるだろうし、公園の階段の一歩を降りるくらいの時もあるだろう。
東尋坊の崖から飛び降りれば、ほぼ百発百中命を落とす。公園の階段は失敗してもせいぜい足を挫く程度だ。
『新しいこと』にもレベルの差はある。

このレベルの差を作っているのも自分である。
例えが極端だが、人によっては東尋坊の崖が、家の階段くらいに思えるかもしれない。
逆に公園の階段が、ちょっとした崖に感じるかもしれない。
この差は『失敗したくない』という気持ちの差、であると思う。

失敗は怖い。
ショックを受けるのは間違いない。下手すると心や体を傷つけてしまう。
自らに降りかかるであろう危険を避けようとするのは、人間として当たり前の行動だ。
しかし、ここでちょっと待てよと踏みとどまる。
命を落とすようなことがあれば元も子もないが、失敗は経験である。
『○○出来なかった』のではなく、『○○出来なかったという経験をした』ということなのだ。
自分の成長の肥やしが、一つ増えたと思えば良い。
『失敗したくない』という気持ちは、自分の成長を自ら阻害しているのである。

命を危険にさらさない限り、何でも取り敢えずやってみるのが良い。
手あたり次第でも良いだろうが、『これ、なんかやってみたい気がする』という気持ちが少しでも自分の中に起こることを、行動の基準にしている。その方が効率が良い。
東尋坊レベルの経験はまだないけれど。

『ああ、失敗だったな』と思ったことは山ほどある。どちらかというと、喜ばしい結果が得られた経験の方が少ない。
けれどそれらの経験を振り返ってみた時の気分は『ああ、自分はよくやったな』なのである。
挑戦した自分を誇らしく思い、満たされた気持ちになる。
周囲の評価はどうでも良い。

誰がどう思おうと、自分がやってみたいと思うことに邁進し、行動の結果得られたものは、自分の財産である。
行動を起こしたことそのものが、貴重な経験でもある。
周囲は自分の未来を保証してくれるものではない。
私の未来を創っていくのは私しかいないのだ。
どう思われるか、どんな失敗が待っているか、そんなことにビクビクしていたら何も出来ない。
自分で自分の未来への扉を閉ざすのは、生涯を終える時で十分間に合うと思っている。

偉そうなことを言っているけれど、百パーセントやってみた訳ではない。
今年もついつい、ブレーキをかけてしまったことがいくつもある。
お金、身体の状態、年齢・・・ブレーキになる要因は、年齢を重ねるほど増えていく。
それでも自分の内なる声に耳を澄ませ、やりたいと思ったことは『取り敢えずやってみる』。
そうやって自分を満たしていくのが、自分の為なのだから。

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今年も拙記事をお読み頂き、誠にありがとうございました。
コメント返し出来ないにも関わらず、多くのコメントを頂き、恐縮しております。有難く読ませて頂いております。
記事を購入して下さった方々、本当にありがとうございました。
みんなのフォトギャラリーで画像をご提供下さった皆様、ありがとうございました。
これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。
皆様、良い年をお迎えください。

在間 ミツル










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在間 ミツル
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