『ありがとう』の嬉しさ
大学時代は、梅田にある大手婦人服販売店で、接客や品出しや在庫整理のバイトをしていた。私にとっては初めての“働く”という体験だった。正社員に手が遅いとお小言をもらったり、ブラウスをキチンと畳めずお客様にクレームを入れられたりした事もあるが、今思っても沢山の貴重な体験をさせてもらった。
私はブラウスの担当だった。
時代はバブル全盛期で、派手なデザインのものが多かった。生地もピーチスキンなどが出だした頃である。若い人向けの店であったが、色々な年代のお客様が来られた。
中に少し年配の、恰幅の良い常連客がおられた。いつもフリーサイズの、大きいガブッとした物をお求めになる。
ある時そのお客様が、少し高めの商品の棚の前でしげしげと一つの品を手に取って眺めては戻し、やっぱり取っては眺め、しておられた。そのブラウスはちょっと珍しい、抑えた色味だがまるで一枚の油絵のような、大胆なデザインだった。
ご試着なさいますか?と声をかけると、お客様は照れくさそうに、
「試着はいいわ…このブラウスのウエスト、何センチあるかわかります?」
と聞かれた。
当然だが普通、ブラウスのウエストサイズは表記されていない。試着した方が良いと思うが、お望みではないので無理には勧められない。どうしようかな、と思ったが試着室にメジャーがあるのを思い出し、測ってみる事にした。
ゆったりとしたシルエットで、かなりの幅があったと思う。何センチ、とお知らせするとお客様の顔がパッと明るくなり、
「良かった!じゃあこれ頂くわ!」
と仰った。
レジにご案内し、畳んで袋に入れてお渡しするとお客様は、
「ありがとう!」
ととても嬉しそうな笑顔を向けて下さった。
それまで私は、お金を払って物を買うのになんでお礼を言う必要があるのか、と思っていた。買い物をする時、レジでお礼を言った事なんてなかった。商品の対価を払う、それで相手を儲けさせてやっている、お礼は向こうがこっちに言うもの、そんな気持ちも持っていたと思う。
バイト中だって、一枚売れた、ヤッター!くらいの気持ちだったし、お客様が喜ぶかどうかなんて全く関心はなかった。
でもあのお客様の笑顔に、私はとても嬉しくなった。どんな仕事でもお礼言ったら相手は喜んでくれるんだ、そんな当たり前の事に気づいた瞬間だった。
私が買い物の際に必ずお礼を言うようになったのは、この時からである。大抵、お店の方も笑顔を返して下さる。店員さんにあの時の自分を重ね合わせて、また嬉しい気持ちにさせてもらったなあ、と心の中で手を合わせている。