小さな背中
「おはよう。来たよ」
朝、床掃除をしていると、背中から声をかけてくる人がいる。
「あ、いらっしゃいませ」
振り向くとご常連のM様が、ニコニコしながら立っておられた。
ご常連、といっても二種類ある。
よくお買い物下さる、店にとって有難いお客様と、何かにつけ従業員を困らせるお客様。M様は後者だ。
姿を見かけた従業員は一様に
「来た来た!私がレジに居る時に来ないでよ~」
と心の中でこっそり祈る。
こっちが接客中だろうがなんだろうが執拗に案内を求め、商品探しに長時間付き合わされる。聞こえている筈なのに、聞こえないふりをして、何度も同じことを説明させる。しまいには説明を字で書いて見せてくれと言う。それも真剣に、ではない。ニヤニヤしながら、こちらを翻弄しているのが見え見えの態度なのだ。
こちらがウンザリした様子を見せれば瞬時に察して怒り、商品を投げつけたり大声を出したりといった、困った行動をなさる。
迷惑度合いは十のうち八くらいの、要注意人物である。
ちょっと見は人の良い、小柄な普通のおじいちゃんなのだが。
ところがこのM様、ひょんなきっかけから私を非常に贔屓にして下さるようになった。
三ヶ月くらい前の早朝のことである。
「足の痛くならない靴が欲しい」
と仰って来店された。
他に店員はおらず、一人で対応した。
「足のどこが痛いですか?」
取り敢えず椅子に座って頂き、しゃがみこんで尋ねると、彼は嬉しそうな顔をして靴下を脱ぎ、親指を指した。
「ここ」
見ると酷い肥厚爪(ひこうつめ)である。
フットケアラーのKさんに永らくお世話になっているおかげで、よくある足のトラブルについては簡単な知識がある。
靴で押さえつけられた爪が段々厚くなり、石のようになる症状だ。
ひどい時は靴下を履くのも辛くなる。そうなる前に、皮膚科に飲み薬を処方してもらった方が良い。
靴選びは大変である。
M様は恐らく、相当な痛みがあるに違いない。
「歩くの、お辛いんじゃありませんか?甲の部分がマジックテープになっているものが調節しやすくて良いと思いますが」
ここまで言って、はたと考えた。
靴はピンキリである。あんまり高いものをお勧めして、怒られたらまずい。どこら辺にM様の地雷があるのか分からない。
しかしお訊きしないことには話が前に進まない。
意を決してお尋ねした。
「ご予算はおいくらくらいでお考えでしょうか?」
するとM様は
「あまり安いものは、結局合わなくて履けなくなる。値段はいくらでも良いから、兎に角痛くない靴が欲しい」
と仰った。
訊き返しもなく、普通の会話が出来ていることに意外な感じを覚えつつ、私は店ではそこそこ高級品の、某社のスニーカーを持ってきた。
「これで如何でしょう?」
M様は黙って靴べらを使うと、お勧めした靴を履いて立った。
「おう、痛くない!これ、良いじゃない!これにしよう!これ、履いて帰りたいから、タグ切って!」
満面の笑みである。
「では返品や交換は出来ませんが、よろしいですか?」
「そんなの、当たり前じゃん。返品なんてしないよ。気に入ったんだから」
本当かなあ、と眉にこっそり唾をつける。『そんなこと聞いていない』はM様の決まり文句だ。
しかしルールは曲げられぬ。返品に来るかも知れないが、その時は社員の応援を呼ぼう、と静かに腹を括った。
精算を済ませると、
「あんた、何て名前」
とM様がやおらレジ台越しに手を伸ばし、名札を掴もうとした。
これもM様あるあるだ。
過去にも同じような行動をなさって、悲鳴を上げた女子社員と大きなトラブルになったことがある。
咄嗟にさっと身を引いて、名札を突き出すように示して頭を下げた。
「あ、り、ま、です。どうぞよろしく。お気に召したのがあって、良かったです。またお越し下さいませ」
するとM様はマジマジと私を見て、しばらくじっと佇んでいたが、くたびれた帽子を取ると、深々とお辞儀をなさった。
「ありがとう。これで痛くないよ。また来るね、ありまさん!」
普通のやり取りが出来たことに、キツネにつままれたような気分でお見送りした。
その後、ご来店時は必ずと言って良いほど、私の居るレジを訪ねて下さるようになった。
少し話をして、そのまま帰って行かれる。通りすがりに手だけ振って下さることもある。
ごく普通のご常連の態度である。
きっとM様は寂しかったのだ。
皆が自分を避けるのは身から出た錆ではあるが、それでもかまってくれる人が欲しい。勝手ではた迷惑な我儘だが、こちらが商品に関するご要望に出来るだけ真摯にお答えした結果、自分は大事にされて良い存在だ、と思えたのだろうか。
短い言葉を交わした後、満足そうに去っていくM様の小さな背中を見送ると、いつも少し切ない気分になってしまうのである。