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クリぼっち

今年は一人でクリスマスを過ごすことになった。
しかし
「クリスマスやのに、一人にしてごめんな」
なんて、我が夫が言う訳はない。
翌朝、遠方で早い時間に仕事がある為、前泊で出かけたのである。つまり出張だ。
山に登りに行ったとか、アマチュア無線の会合に行ったとかならむくれもしようが、れっきとした仕事である。しょうがない。
こういうのを『クリぼっち』というのだと、大昔に聞いたことがある。クリスマスに一緒に過ごす人がいない、『ひとりぼっち』に因んだ造語なんだそうだ。
寂しい状況を表す言葉の割には、語感がユーモラスで可愛らしい。

職場で一緒に勤務していたMさんに
「今日、私クリぼっちなんです。つまりません」
と言いながら、冗談めかして拗ねてみたら、
「なんで!せいせいするじゃない!」
と真顔で返されて、ウッと言葉に詰まってしまった。

Mさんの旦那様は昨年大きな手術をなさった後、少し早めに退職された。今は家でのんびり過ごしておられるそうだ。
お子さんはとっくに皆独立し、家庭を持っている。家のローンも終わっている。両親は既に亡く、家族は皆健康で、心配しなければならないようなことは殆どない。
唯一にして最大の心配事はご自身の身体だが、今のところ病気の再発もなく、普通に生活できているらしい。
が、Mさんは手厳しい。
「もうさ、家に居ても何にも手伝ってくれないし、ボンヤリテレビとかYouTube観てるばっかりで・・・邪魔だし、イライラするんだよねえ。私もたまには一人になりたいよ、クリスマスくらい」
憤懣やるかたない、といった感じで、Mさんは心底羨ましそうに言った。
手術をなさる前はかなり深刻な病状だと伺っていたから、そんな言い方しなくても、という思いがちらりと頭をかすめた。
口に出すことはしなかったけれど。

Mさんに嘆いて見せたのは、勿論冗談である。この歳になって『クリぼっち』を嘆くこともなかろう。
今夜の夕飯は思いっきり手抜きして、自分の食べたいものを食べた。
コタツに入ってウトウトしながら、録画しておいたドラマもゆっくり観られた。
明日の家事も中断する人が居ないから、きっとサクサク進められる。
夕飯は食べるらしいが、量は要らないということだったので、そんなに力を入れて作る必要もない。なんなら残り物でも十分だろう。
布団の上げ下げも自分の分だけ。お風呂も一番風呂。洗濯物は自分の分だけ。
良いことづくしである。

ちょっと前の私なら、きっとMさんのような心境で『クリぼっち』を心待ちにしていただろう。
夫という『枷』を勝手に作って自分を縛り、自ら息苦しさを感じていたからである。
『枷』から逃れるには、本当は自分の機嫌を自分で取らねばならなかったのだが、当時は愚かだったから、そんな事全く気付いていなかった。ただひたすら『枷』である夫の存在が鬱陶しかったのだが、それが自分の所為だなんて思ってもみなかった。
『枷』は自分の内側にこそ、存在したのである。
それが分かってからは、息苦しさはなくなった。
ずっと一緒にいたい、という強い思いでは決してないが、夫が居ても居なくても自分の機嫌の良し悪しには関係がなくなった。
夫は文字通り、私にとって空気のような存在になったのである。

連れ添って四半世紀。
世の中にも、私達家族にも、色んな事があった一年だった。
その時その時は必死だったけれど、振り返ってみれば良いことばっかりだったと思う。
何気ない日常の連続は、水の泡のように浮かんでは記憶から消えていく。
けれど夫と額を寄せて相談し、意見をぶつからせ、お互いを心密かに案じ、時にはバカみたいに笑い合った時間は、オブラートを重ねるように少しずつ、そのまま夫婦の歴史になっていっている。
このひとときも、大切な夫婦の歴史の一ページだ。

こんな風に一人、しみじみと今年を振り返ることが出来たのも、『クリぼっち』時間のお陰である。
ワクワクするようなディナーも、二人で囲むケーキも、特別なプレゼントもない。
けれど、最高に有難く幸せなクリスマスイブである。
『クリぼっち』、良いじゃないか。






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在間 ミツル
山崎豊子さんが目標です。資料の購入や、取材の為の移動費に使わせて頂きます。