見出し画像

来て良し、来て良し、いんで良し

『孫は来て良し、いんで良し』というのは、お盆明けの今の時期などに良く言われる言葉なのだろう、と思う。『いぬ』とは犬のことではなくて『帰る』という意味の関西弁である。『孫は来てくれたら可愛くて嬉しいけれど、体力も要るし、怪我をさせたりは出来なくて気を遣うから、まあ、寂しいけれど帰ってくれてもホッとするところもある』といったような意味で、祖父母の正直な心境を言い表した絶妙な言い回しであると思う。

こういう言葉があることを初めて知った時、小学生だった私は少し悲しい気分になった。おばあちゃんたちも私達が帰ると「やれやれ」とホッとするのかな、と思ったからである。
いつも遊びに行くと毎日いっぱいご馳走をふるまってくれるし、いっぱい欲しいもの買ってくれるし、私らは嬉しいけど、おばあちゃん達お金いっぱい使うよなあ。お布団もいっぱい敷かなあかんしなあ。しんどいやろうなあ。うるさいやろうしなあ。私は大人の心境を慮り、反射的にそんな風に考えてしまう癖のある、遠慮がちな子供らしくない子供だったから、いつも笑顔の祖父母の本当の心の内を目の前に突き付けられたような気がしたのである。
そこである時、一緒に買い物に行った帰り道に、私は祖母におそるおそる訊いてみた。
「ねえ、おばあちゃんも私ら帰ったら『ああ、やれやれ』って思う?『いんで良し』って思う?」

母方の祖母は裏のない、正直で真直ぐな人だった。大きな目をぐるっと私の方に向けてニヤッとすると、
「ほうやなあ。そういう気分もあるなあ」
と言った。
祖母の言い方によっては私は酷く落ち込んだのかも知れなかったが、あまりにも軽い調子で、さも今初めて気付いたようにからりと言われてしまったので、全然平気だった。むしろ、当の孫に向かって何も気を遣わず、そういう返事をする祖母の正直さが面白く、私は思わず笑いだしてしまった。祖母も
「エヘヘへ」
と面白そうに笑うと、
「私は『来て良し、来て良し、いんで良し』くらいやなあ」
と歌うように言いながら、私の頭を撫でてくれた。

私は小さい頃から、母に事ある毎に『お姉ちゃんでしょう!』と言われることが常で、いつの間にか子供らしく甘えることを自分で封印してしまっていた。無条件に頭を撫でてもらった記憶も殆どない。でもそれは『お姉ちゃんだから』我慢しなくちゃ、と無意識に思い込んでいた。
けれど、祖父母は違った。持って行った通知表を殆ど見ることもせずに、「よく頑張った」と撫で、近所の人に一緒に挨拶をすれば「上手に挨拶できるんやなあ」と撫で、何かのついでに一枚皿を運べば「お手伝いようするなあ」と撫で、苦手な野菜をたまたま残さず食べれば「食べられるようになったんか、大きいなったなあ」と撫でてくれた。何か課題を出されてそれを克服したから褒められるのではなく、私が『私』のままふるまうことをそのまま喜んでくれる祖父母の存在は、とても大きかった。
今思えば両親が撫でてくれない分、長期の休みに『ため撫で』してもらっていたようなものだった。頭を撫でてもらうと不思議に安心し、温かい気分になってとても心が落ち着いた。

祖母の正直な言葉は私の心に響いた。小学生の時に言われた言葉を、もう自分に孫がいてもおかしくない年齢になっても覚えているのは、そのせいだろう。
母は三人姉妹の、歳の開いた末っ子だったから、私達が小学生の頃の祖母は多分かなり高齢だったと思う。私達を迎える準備や、食事の支度、お出かけなどはかなり体力的にも金銭的にもキツかったろう。それでも自分達を慕ってくれる孫たちを、心から可愛いと思って精一杯もてなしてくれていたのだなあ、としみじみ有難い。
『来て良し』を二度繰り返したのは、祖母なりの歓迎の気持ちだったのだと思う。そして『いんで良し』をつけたのは、嘘のつけない、正直な祖母の人柄故だろう。

目一杯愛されていた幸せな記憶は、この歳になっても私を温かな懐かしい気持ちにさせてくれる。
彼岸に居る今も、時折私の頭を撫でてくれるような気がする祖父母である。今度はいつ墓参りに行けるだろう。