つい忘れがちなこと
合奏練習をしていると、よく指導の先生に指摘されるのが
「みなさんはワンフレーズが短すぎます」
ということである。
フレーズ、つまり旋律は長く取らねばならない。例えば『ふるさと』(作詞 高野辰之 作曲 岡野貞一)だと、
『兎追いしかの山』
でワンフレーズ、
『小鮒釣りしかの川』
でワンフレーズ、と捉えてもよいが、
『兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川』
を一つの塊と捉えた方が、聴いている人に対して説得力がある。
しかし我々素人が演奏すると、どうしても『兎追いし』でぶち千切れてしまうことが多い。
何故かと言えば、管楽器は『息』という有限な資源を使って演奏しているからである。
息が足りなくなれば、当然吸い込んで補充しなければならない。しかし『兎追い』で吸って『しかの山』と続ける、なんてことは、あまりにもナンセンスであり得ない。
それは音楽の専門教育を受けたことがない、私のような者にだってわかる。だから条件反射的に『どこで息を吸えば、音楽的におかしなことにならないか』という視点で、ブレスするポイントを探す。
すると本当は長いフレーズの中の、短いセンテンスの区切りが目に入る。『よし、ここで息を吸おう。ここなら大丈夫だ』となって、吸う。だから長いフレーズがここでぶっちんと切れてしまうのである。
実は息と言うのは、吐ききってからでないと沢山吸えない。だからこうやって短いセンテンスで吸ってばかりいると、やがて吸えなくなってくる。吸えなくなると余計に吸おうとする。この繰り返しで、ドンドン吸えなくなっていく。
プールで息継ぎし過ぎた時のように、浅い呼吸になってしまう。
肺には殆ど息が入っていないのに、やたら吸って吸って吸いまくることになる。
この負のループに入り込むと、演奏が難しくなる。
息をキチンと吸えないと、フレーズを『うたう』ことなんて、とても出来なくなる。
これは当然のことで、意識が『音を奏でること』よりも『息を吸うこと』にばかり向いてしまうからだ。
本来、音を出す為に息を吸っているのに、『息を吸うこと』が目的になってしまい、『音を奏でること』が後回しになってしまっている。つまり最早『演奏している』とは言えない状態に陥ってしまうのである。
楽器を習い始めた最初の頃、師匠のK先生が
「兎に角、吸え!吸ったら最後まで吐ききれ!」
と耳にタコができるほど仰ったのは、この為である。
息が吸えなくては、音楽どころではないのだ。
ワンフレーズが短くなってしまう要因は他にもある。
あくまでも私個人の推測だが、多分『やっつけ仕事』みたいな吹き方になってしまうのだと思う。
難しい運指や出すのに注意を要する音を楽譜上に発見すると、心理的に焦りが生じる。それに伴って身体が硬くなる。硬くなると息を沢山吸えなくなる。結果的に、息が短くなってしまう。
難しい運指も音も、フレーズを構成する一つの『音』である。その音だけを取り出して練習することは必要にはなってくるだろうが、音の果たす役割とか表情とかを意識することを忘れてしまうと、どんなに上手に『音』を出せても、『うたう』ことからは程遠いものになってしまう。
あとは、曲全体を大きなフレーズの集合体と捉えていないことも原因だろう。
ついつい、目の前の短いフレーズを『上手く吹ききらなきゃ』という意識に襲われてしまい、一つのフレーズは曲という物語の一部分に過ぎないということを忘れてしまう。そして『あ、このフレーズ出来た』『次はこのフレーズ出来た』となり、意識が『曲全体』ではなく、『フレーズ一つ』に向かってしまう。
悲しいことに、上手く吹こうとすればするほどこうなる。
フレーズをみじん切りにして、技術的に難しいことをさらうのは必要な練習である。私だってやっている。
しかしそんな時も、『自分は音楽を奏でる為に、この練習をやっている』ということを、頭の片隅に常に置いておくようにしたいと思っている。