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祈ると病が治る!?天台宗の布教に人生を捧げた最澄の生涯とは?🌈

平安時代、空海とともに唐(中国)へ渡り、天台宗を開いた祖として知られる『最澄(さいちょう)』。

天台宗は、6世紀に中国で開かれた宗派で、

「全ての人は将来、仏になれる」

このように説く、法華経の教えを中心とした宗派です。

最澄は、この天台宗をアレンジし、日本独自の天台宗へと進化させた人物。

最澄の誕生については諸説ありますが、

その中でも、特に有名なのが「767年に、近江国(現在の滋賀県)の生源寺付近で生まれた」という説です。


最澄は、子どもに恵まれなかった両親が、比叡山の神様にお願いして授かった子ども。

12~13歳頃に出家し、近江国の国分寺に入門。その後、行表法師の弟子となり、14歳で『最澄』という名が与えられます。

19歳の時に、東大寺で正式な僧侶となり、そこから12年間、修行のため比叡山にこもります。

その中で、最澄が記したのが『願文(がんもん)』。

当時の比叡山は、一種の聖地のような場所でした。

願文は、そこにこもって修行を行った最澄が文章に残した、修行についての『志』。

「仏になるための教えを理解するまで、山を下りない」

こういった修行に対する決意や、神様に対する願いなどが書き記されています。

比叡山で修業を続けていた最澄は、797年に、桓武天皇の『内供奉(ないぐぶ)』に選ばれます。

<内供奉とは?>
天皇に仕え、天皇が無事で安らかであることを祈り、看病をしたり、僧侶の集まりでお経を読んだりする役職のこと。

そして、比叡山での修行を終えた後、還学生に選ばれ、804年に『遣唐使(けんとうし)』として、中国に派遣されます。

<遣唐使とは?>
7世紀から9世紀の唐へ送られた使節団員のこと。
当時最先端だった中国の文化などを日本に持ち帰ることを目的に組織された。

最澄は、中国の天台山という場所で天台宗の教えを受け、数か月後に帰国します。

帰国後の日本は、桓武天皇が病に伏せている危機的状況でした。

このとき、最澄が中国から持ち帰った『天台宗』が注目を集めます。

天台宗は、

「最後まで諦めないこと」

これを教えとしているため、最澄が祈祷することで、桓武天皇の病が治るのではないかと期待されたんです。

しかし、帰国するや否や、桓武天皇は病に倒れてしまいます。結果的に、苦労して学んだ知識を生かすことはできませんでした。

その後、最澄は、天台宗の布教活動に努め、帰国した翌年、国家公認の宗派として認められました。


その生涯全てを天台宗の布教に費やした『最澄』。

最澄が開いた天台宗の延暦寺は、仏教の総合道場として大きく発展し、仏教を開く若者たちがこぞって集まり、ここで修行しました。

しかし、延暦寺が武力を持ち、一気に腐敗していくと、最終的に、比叡山は、織田信長の焼き討ちに遭ってしまいます。

その後、比叡山は、江戸時代に再建され、1994年に世界文化遺産に登録されています。


現在リニューアル工事中の比叡山延暦寺会館では、座禅や写経の修行体験ができます。

来月8月1日(月)より予約受付が再開されますので、気になる方はぜひチェックしてみてください😌

最後まで読んでいただきありがとうございました🌈
 

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早坂 渚
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