幕末に実在した最後の忍者!勘三郎が黒船で入手したメモの内容とは?🌈
時は幕末、開国に揺れる日本で、最後の忍者として活躍した伊賀(現在の三重県西部)の『沢村保祐(さわむら やすすけ)』。
通称、甚三郎(かんさぶろう)。
当時『忍び』『草』などと呼ばれていた忍者は、隠密行動を行う『下級武士』または『下級戦闘員』。
今でいう『スパイ』にあたる職業です。
戦国時代まで、忍者は、
①情報探索 ⇒ ②斥候(せっこう) ⇒ ③奇襲 ⇒ ④守衛
「優れた体術」「巧みな戦術」「華麗な変装」などを生かした『秘密部隊』でした。
しかし、平和な江戸時代になると、戦夜襲(夜間に敵を攻撃すること)や放火なども行っていた伊賀の忍者は、変化を余儀なくされます。
甚三郎は、『伊賀者』と呼ばれ、国内の「情報収集」や「護衛」なども担うようになるんです。
そんな中、1853年に、ペリーが浦賀沖に来航します。
武家諸法度によって500石(75トン)以上の軍船が厳しく禁じられていた日本にとって、アメリカの大きな黒い軍艦は脅威でした。
アメリカは、日本との通商(商業取引)を行うため、江戸幕府に開国を強く迫りましたが、幕府側は、親書だけを受け取り、そのまま引き返すよう要請。
ペリーは、「来年また来る」とだけ告げ、その場を後にします。
4隻の巨大な蒸気船を目の当たりにした幕府。
1年後、再び開国するか否かを迫られます。
幕府は、大名から庶民に至るまで、様々な身分から意見を求めました。
「とにかく、相手(アメリカ)の情報がほしい」
そこで、白羽の矢が立てられたのが、甚三郎でした。
代々狼煙(植物に火をつけて出た煙で遠方の味方に情報を伝達する)役の家柄だった甚三郎。
彼は、藩主から、潜入調査を行うよう命じられます。
再び来航したペリーの艦隊には、日本側から60人が招待されました。
甚三郎は、その中に上手く紛れ込み、黒船に潜入することに成功。
乗組員から、パン(2個)・煙草(2葉)・蝋燭(2本)・紙片(2枚)を入手し、藩主に報告します。
入手した紙片には、オランダ語で文字が書かれていました。
当時翻訳できる手段がなかった甚三郎は、その内容が重要なものであるか否かを判断しないまま、紙片を持ち帰ったといいます。
結局、その紙片に書かれていた内容は、
「イギリス女はベッドが上手、フランス女は料理が上手、オランダ女は家事が上手」
「音のしない川は水深がある」
ただのことわざだったんです。
突然、スパイ活動を命じられ、情報を掴んで帰ることができたと思った挙句、まさかの結果に終わった勘三郎。
最後の忍びの活動は、こうして幕を閉じました。
残念ながら情報は得られませんでしたが、ある意味、世界と関わりを持った最初で最後の忍者だったのかもしれませんね😌
最後まで読んでいただきありがとうございました🌈