人は何かの犠牲なしに何も得ることなどできないのだから
今年の5月末くらいに、それなりに大事故をし、二か月近く入院をした。
その出来事の衝撃は大きく、外見的な後遺症は無いが、元気に暮らせていた日々が思い出せない程度には、主に精神的にダメージを負った。
精神にダメージが出ると、体にも影響するため、結果、不眠、歩く時の足の痛み、指の痛み(この足と手の痛みはおそらく飲んでいる薬の副作用である。筋肉が固まる薬をおそらくずっと飲み続けなければいけない)、あとはあまりにも強いショックを受けたため、体調が悪いときは非現実的な被害妄想をするようになった。(非現実的と自分で分かっていても、頭が勝手にそう思考してしまうので、現在対処法を探している)
大きなケガや病気をすると、世界の見え方が一変するとは何かで聞いたことがあるが、私も、まさに、世界が一変したと感じている。
今の世界が非現実的にも思えるほどのダメージだった。
悪いことの後には気づかないほどのささやかないいことが訪れると、これまた何かで聞いたことがあるが、それも、一理あることだと感じている。
まず、不眠を経験し、寝つきが良い今までの私の体はなんていいものだろうと思うようになった。
入院生活はどうしても安眠できず、寝心地よく整えられた、家族しかいない守られた家の中で安心して寝られるのは何と贅沢だろうと思った。
コロナ禍で病院では面会も謝絶、2か月ほぼ家族とは入院荷物の引き渡しの一瞬しか会えず、家族と一緒にいられるかけがえのない時間を大切にしたいと思った。
食べたいときに食べたいものを食べられる贅沢を知った。
「贅沢」とは、今までの生活だったと知ったのだ。
私は入院するまで、もっとお金が欲しいと思っていた。
お金があればあるほど、幸せ度は増すものだと信じていた。
健康で、家族がいて、食べることができて、生きていける。
それだけで十分に満たされると気づいた。
入院生活では、看護婦さんにもお医者さんにも良くしてもらったが、コロナ禍でいつもより制限も多く、辛い部分も多々あった。
健康を失って働いて収入を得ることができない今でも、食べるものがあって、快適な寝床があって、生きていける。十分贅沢な暮らしができていると実感している。
以前のように、無防備に、肩の力を抜いて、のびのびと安心していた自分には戻れないかもしれないが、少しずつ、書くことや、楽しみを取り戻していきたい。
有り難さは、失ってから、やっと気づくものなのかもしれない。
感謝は、痛みを伴った学びの結果として、するものなのかもしれない。
馬鹿だなぁ、とも思う。
愚かだなぁ、とも思う。
それでも、悲観に陥らず、じっと足を止めて、自分が回復するのを待ち続ける。
様子を見て、歩を慎重に進めてみながら。
家族がいる家に守られながら、感謝をする。
有難うございます。
最後に、タイトルは漫画『鋼の錬金術師』から引用しました。作品の終わらせ方が素晴らしく、色褪せない名作なので、未読の方はぜひ読んでみてください。
ありがとうございます。