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近くて遠いアメリカ(3)

やまちゃんはヴィンテージのジーンズのお尻のポケットに、いつも同じ文庫本を入れていた。待ち合わせのときなんかに彼はたいてい先に着いていて、壁に寄りかかって立ったまま、その本を読んでいた。ポケットの中にあったのは、ジャック・ケルアックの『路上』。その頃、ぼくらは20代の半ばに差しかかろうとしていた。ふたりとも無職だった。

ケルアックのことも、『路上』のことも、ぼくは何も知らなかった。ぼくはやまちゃんがただ格好つけるためだけに、その本を持ち歩いているのだと思っていた。それでも、その本でなければならない理由が、それなりにあるんだろうと分かってはいたが、こっちから理由をたずねるのも癪だったので何も聞かなかった。

やまちゃんはときどき、初めて会った人にその本をあげる。あげる人とあげない人がいるから、きっとやまちゃんなりのこだわりがあったのだと思う。小さな劇場で仲間内で舞台をやったときに、そのメンバーにはじめて加わったおとなしそうな女の子や、ブリテッシュロックが大好きなぼくの専門学校時代の女友達にもその文庫本を渡していた。

のちにぼくは『路上』を読んだし、ビートジェネレーションとかビートニクとかいう言葉も知った。なるほど、たしかにかっこいい。アメリカ文学史を語る上でははずせないムーブメントといえるだろう。サリンジャーなんかを読んで満足している場合ではなかった。ボブ・ディランもジム・モリソンもジャニス・ジョプリンも影響を受けたというビート文学。無視することはできなかった。アレン・ギンズバーグとウィリアム・バロウズも読んだ。正直、よく分からなかったけど、もう一度、アメリカを近くに感じる日々が帰ってきたような気がした。

今年、2024年のクリスマスに全米で公開される映画『A COMPLETE UNKNOWN』では、ボブ・ディランの半生が描かれている。19歳のミネソタ出身の無名ミュージシャンが、時代の寵児としてスターダムを駆け上がる様子が描かれているらしい。この映画の中にビート詩人たちが出てくることはないかもしれないが、同時代の気配のようなものを感じとることはできるだろう。ボブ・ディランがニューヨークにやって来た頃に、ビート詩人たちもそこにいたはずだ。彼らが出会うことはなかったのだろうか。

ぼくは当時はビート文学のことはよく分かっていなかったように思う。やたらとアメリカ的すぎて、日本人のぼくにはつかみどころがないように感じていたからだ。サリンジャーの作品の中に自分を見つけたのとはまったく違う感覚。作品の中にある情熱と疾走感に圧倒されつつも、ビートという言葉でひとまとめにして何かを語ることにさほど意味はないのだろうと思っていたりもした。とはいえ、ビートというムーブメントはたしかにそこにあって、彼らの生きざまにやまちゃんのような人が憧れていたりした。だから、ぼくも本当はやまちゃんのとなりに並んで、その憧れに追いつきたいと思っていた。

やまちゃんは30歳になる前に東京を離れ故郷に帰って行った。東京を発つ数日前、なぜかぼくの部屋を訪ねてきて、しばらく泊まらせてくれと言う。ぼくの部屋は風呂なしだったから、銭湯にいったり、晩めしを一緒に食べたり、とにかく、いろんなことを夜通し語り明かした。最後の日、ぼくは阿佐ヶ谷駅でやまちゃんを見送った。急に一人になったぼくは、さみしくてしかたがなかった。だからというわけではないが、自分の部屋にもどって大掃除をした。家具の配置を変えたりして、もしかしたら、数日間一緒に過ごしたやまちゃんの気配をなくそうとしていたのかもしれない。掃除がひと段落したあとで、コーヒーでも淹れようとして気づいた。コーヒーミルの横にやまちゃんの『路上』が置いてあった。

ぼくはこれまで『路上』を人にあげたことが二回だけある。その頃はいつでも人にあげられるように持ち歩いていた。そして、その度に新しい『路上』を買った。でも、やまちゃんが置いていった『路上』は、今でもずっとぼくの部屋の本棚にある。やまちゃんにはもう二度と会えない。数年前、心筋梗塞であっけなく死んだ。その日からぼくは、また何度も『路上』を読み返した。今なら、やまちゃんが話すケルアックのこともビートのことも、もう少し一緒に話せるかもしれない。

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