徒然日記2020.10.06
今日は朝からzoom会議のため在宅勤務で、昼を挟んで14時ごろまで会議が続いた。昼は冷凍パスタでお気に入りのフェットチーネのミートソース味。冷凍なのにもっちりもちもちで最高に美味しかった。14時ごろの会議が終わってからも自宅で勤務していたので、結局家を出るのは16時ごろ。取引先を1件訪問していたら、あっという間に夜になってしまった。もう秋だなぁ…と感じながら帰宅した。夜飯は妻の手作りのロコモコ丼、手作りはなんでこんなに美味しいのか!ノンアルコールビールで美味しくいただいた。
さて今日の一考であるが、象徴の力についてあれやこれやと話をしたい。中沢新一著「虎山に入る」(KADOKAWA)から古代の人の地名にまつわる話を引用する。
日本列島の海岸部には、「富土」「布土」「富戸」などと書いて、「フト」と読ませる地名がたくさんある。これには千葉県の有名な漁港である「富津(フッツ)」や、石上神宮系の「布都(フツ)神社」なども、仲間に加えることができる。また「発戸」「風戸」「払戸」などと書いて、いずれも「フット」と発音する地名も、同じ系統の地名と見てよい。 これらの「フト」「フツ」「フット」などは、いずれも海岸に面した漁村であり、しかも良港である。柳田國男はこうした地名がすべて、「ホド」という古代からの日本語に由来していることを、はじめから知っていた。ホド、すなわち女陰である。
港、湾に川が流れてくる地形を古代の人は女性の股の大事な部分とシンクロさせた。そこは生命の源のように、豊かなイメージとなる。女性は子どもが産まれてくるし、港に川が流れてくるところは魚や自然の豊かな恵みのある地形である。アナロジックなイメージの連想に思わず、手を叩きたくなる。
このような全くの関係のないものを象徴的に捉えてアナロジックに重ねていく力を象徴力と言ってみるとすると、現代は象徴力が弱くなっているような気がしてならない。表層では繋がり得なかったものが、深いレベルでは繋がることが象徴力にはできる。
試験的ではあるが例え話として一例、オリジナルのものをここに記したい。
ある人が突然事故にあって骨折してしまった。本人は突然の不幸にうちひしがれて、なんで自分がこんな目に遭わないといけないんだ!と自分の不幸を恨んでいる。病院で入院していると、とても暇でスマホゲームに熱中しながら入院中の暇な時間を過ごしていた。しかし夜になると自分の身に起きた不幸を恨んで、あれやこれやと考えてしまう。そんな悶々とした入院生活を送っていた。入院生活をしている中で、暇なので散歩していると、子猫がいることに気づく。子猫は怪我をしているようで親猫が舐めたりしている。スマホゲームに夢中の彼は、入院生活の中、猫を見たのはこの一回だけである。彼はなんにも気づくことはない。人間と動物であるし、なんの繋がりもない。
では気づく人はどういう人か?
傷ついた子猫を自分に重ねて、子猫と自分が一体化するような思いに駆られる。入院中に子猫のことが気になり、病院食を少しあげたりして、気にしている。そして母猫が舐める姿をジッとみながら野生の動物の癒しの力をアナロジックに自分と重ねてみせる。子猫がついに傷が治って元気に走り回ってる姿を見て、言葉にできない感動、宗教的な体験をする。子猫の生きる姿に自分の人生を重ねて、新たな「生きる」を見つけていく。
陳腐な作り話で申し訳ないが、象徴的に繋がりのないものを重ねてみせるとはおおよそこのようなことである。人間と猫、人間と自然、人間と物、そこには大きな違いがあるにもかかわらず、アナロジックに、象徴的につなげてみるとこによって自分の中での宗教的な体験がそこにはある。
矛盾律を越えていく思考
Aでもあり非Aでもある
そんな世界を垣間見たくて、偶然の集積の中にたしかな繋がりを探したいのだ。
今日も一日が終わろうとしている。昨日、私もお世話になった両親の親友が亡くなられた。ここにご冥福をお祈りする。その方を悼み、また生前の笑顔を思い出して日記をおわる。