徒然日記2020.08.19
今日も朝起きると妻が朝食のワンプレート作ってくれていた。とても美味しくいただいた。毎度ながら感謝の気持ちだ。今日は仕事で会社の人と待ち合わせていたので、そそくさと出て行く。昨日、久しぶりに走ったせいで筋肉痛がひどい。午前中の仕事を終えて、昼は海老フライ定食をしっかりといただいた。午後も何件か訪問して夕方に帰宅。今日は思ったよりも早く仕事が終わったので、散髪に行く。行きつけの理髪店は、カットの他にマッサージや耳掃除と楽しい雑談でリラックスできるとてもお気に入りの理髪店。ご主人が、9月に北海道旅行を計画しており、1万5千円で飛行機代、レンタカー、ホテルが入っているGo To キャンペーンのプランが気になっているようで、コロナの影響を見ながら行こうか迷っているとのこと。難しい判断だが、リスクを承知で楽しむのも良いかなと思う。私も県内旅行だが楽しめたし、コロナ禍で窮屈な生活をしているから、少しくらいは出たい気持ちもよくわかる。今日の夕食は、焼鮭定食。大戸屋の初期の頃のように美味しい夕食に舌鼓を打った。妻は新婚当時、料理が苦手と言っていたが、日々創意工夫してとても上達している。素晴らしい。夕食後、子どもたちとプラレールや積み木遊びをして家族団らんタイムを楽しんだ。その後寝かしつけは少し手こずったが、21時半くらいには終わった。今日は筋肉痛がひどいのでウォーキングは20分だけとした。それでも体は疲れ切っている。
さて大好きな河合隼雄先生と作家村上春樹さんの対談本から気になる一文を引用しよう。
河合 人間はいろいろに病んでいるわけですが、そのいちばん根本にあるのは人間は死ぬということですよ。おそらくほかの動物は知らないと思うのだけれど、人間だけは自分が死ぬということをすごく早くから知ってて、自分が死ぬということを、自分の人生観の中に取り入れて生きていかなければいけない。それはある意味では病んでいるのですね。そういうことを忘れている人は、あたかも病んでいないかのごとくに生きているのだけれども、ほんとうを言うと、それはずっと課題なわけでしょう。だから、いろいろ方法はあるのだけれど、死後に行くはずのところを調べるなんてのはすごくいい方法ですね。だから、黄泉国へ行って、それを見てくるということを何度もやっていると、やがて自分もどこへ行ったらいいかとか、どう行くのかということがわかってくるでしょう。現代というか、近代は、死ぬということをなるべく考えないで生きることにものすごく集中した、非常に珍しい時代ですね。それは科学・技術の発展によって、人間の「生きる」可能性が急に拡大されたからですね。その中で死について考えるというのは大変だったのですが、このごろ科学・技術の発展に乗っていても、人間はそう幸福になるわけではないことが実感されてきました。そうなると、死について急に語られるようになってきましたね。だけど、ほんとに人間というものを考えたら、死のことをどこかで考えていなかったら、話にならないですよね。その点、それこそ平安時代の物語なんかは死ということはずっとある。
河合 隼雄(1999),
村上 春樹. 村上春樹、河合隼雄に会いにいく(新潮文庫)
(Kindle の位置No.1483-1496). Kindle 版.
人は死ぬと言うことに対してどうやって腑に落とすかが大きなテーマである。しかし、そこから逃げている近代人の多いこと、多いこと。行き先を「知る」ことは、何よりも大切なことなのかもしれない。しかしそれは難題だ。宗教は「死」に対して一定の答えを出してくれているだろう。だからそれを信じることは救われる一つの道であることは間違いない。しかし、宗教団体が世俗的な組織として活動している以上、難しい問題も併せ持つ。また、科学信仰などと言うが、科学によって宗教性が否定されているような側面もあるので、安易に宗教を信じることは出来ない背景もある。だが、何度でも言いたいのは、「死んだ後、どこに行くのか?」という問いの答えを「知って」いる人はつよい。
自分に翻って、私は答えが出ているか?と問うと。浅田真央のハーフハーフではないが、半分答えは出ているような気がする。私の上の子が面白いことを言うのでそのエピソードを披露させてもらう。私はいつも即興で替え歌など陳腐な自作ソングを歌うのだが、ある時上の子が「パパ、私はその歌良いんだけど、お腹が怒ってるの。歌わないで。」と言われた。「お腹が怒ってるならすぐに止めるね。」と慌てて歌うのを止めた。4歳の小さな子が、自分のお腹に神様を持っている。そのことに驚いたのと同時に、そのお腹の神様を大事にしてほしいと思った。私の答えはこのようなものだ。心の奥底、ユングの言った集合的無意識の領域は、自分の神様のような領域である。そこに絶対的な土台がある。その神様の言うことを大事にして生きることを大切にしていきたいと思う。
今日もなんとかだましだまし仕事をこなし、一日が終わった。この日記も1ヶ月近く続けることが出来て奇跡的だ。もう半ば習慣化しているのだが、一日の終わりに私の好きな本から宗教性のような問題を語っていると、とても心が落ち着く。人は弱い生き物で、世俗的なことをやっているとすぐに因果律に染まり、予期不安などを誘発する。一日の終わりに、因果律の反対、非因果的連関に思いを馳せることは、とても良いことだと気づきだした。私の中の非因果的連関、シンクロニシティ、レンマをこれからも再起動していきたい。そんな思いで日記をおわる。
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