徒然日記2020.10.20
今日は妻と娘が心の対話をした記念すべき日だった。娘は妻に思いの丈をぶつけたようだ。娘は妻に注意されて小言を言われるたびに嫌な思いをしていて、それを形容するのに「心に血が出ている」と言ったらしい。二人を子育てしながら妻は本当によくやっていると思うし、完璧な母親などいないのだから私は何も心配してない。娘が涙ながらに思いの丈をぶつけた後、妻も泣いて和解できたみたいだ。まだ4歳、もうすぐ5歳なのにしっかりと思いを伝えて話し合いができる娘に我ながら畏敬の念を覚えた。涙の対話の後、今晩は二人で仲良く寝た。
娘の思いとシンクロして私も少し切ない気分になったのだが、こうやって心が豊かになっていくのだと思えた。妻も娘の思いをキチンと受け止めて、また家族で歩いていく。こうやって、人生は進んでいく。開かれた対話モードの大切さを改めて感じる。
しばしば親子や人間関係の中で、機械のように相手を操作する人種がいるのも忘れてはならない。そして、操作しようとして思い通りにならないと怒る。そんな呪われた関係からは離れる、脱出するのが一番だと思う。
中沢 小林さんが影響を受けた骨董の先生に青山二郎がいて、ああいう人は、器を見てその中にあるイデアが正真正銘のものであるかを見抜く。それが骨董の凄さですね。
僕は小林秀雄さんの究極の批評だと思うのは、茶器とか、要するに「もの」についての批評です。批評は、詩とか音楽とか小説に対してだけではなく、土と火でつくった「もの」、しかも心がかかわっている「もの」へ、最終的には向かっていく。でも河合隼雄さんは最初からそこにいたのではないか。
河合さんは、焼き物を焼く陶工と似ているなと思います。陶工は粘土を造形して、火の試練を加えて、変形していくという作業をする。河合さんの心理療法を見て、心という粘土に対してよく似たことをしていると感じてきました。日本人の思想表現の最高のものはじつは茶器です。利休・織部の頃の茶器は、日本人の思想表現として最高形態のひとつではないか。その意味で河合さんは思想家なんです。
河合 そう、ただ、すごく「なまもの」の思想、「生きた」思想です。動いているというか、そこで生みだされているところに立ち会うという感じで、思想として内容が固定できない。
中沢 体系化できないのです。禅がことにそうで、「禅の思想とは何か?」というように体系化できない。「無」であるとか、鈴木大拙さんだと「禅は矛盾の共立である」、西田幾多郎さんだと「絶対矛盾的自己同一」という命題表現になるけれども、それはヨーロッパ的な哲学のエッセンスで言うと、じつは何も言っていない。単に心が動き、変化し、流動し、矛盾したものを抱え込みながら動いていって、ときどき均衡をつくり出したりする、その動きそのものを言っているだけのことです。ヨーロッパ哲学は固定することが非常に重要で、常に動いて変化していくものなど哲学の対象にはならないというのが、ソクラテス・プラトン以来の鉄則でしょう。その意味でヘラクレイトスは前哲学者で、哲学者ではないです。古代の人は、動き変化していくものに真実があると考えて、前哲学をやっているわけですけれど、哲学はそれを否定したところに実現されるものです。
河合さんは、ものごとが固定することにすごく敏感で、話しているときにそういうものが出てくると、たちまち壊しにかかりました。
河合 壊す壊す。はずすものも得意ですけれども。
中沢 それはちょっと怖いところがあって、河合さんと話をするということは、剣の立ち合いに近いところを感じていました。ふつうの大学の先生みたいな人たちだと、別に緊張しないでもいられるのに。それは彼らがどこか止まっているかれです。
河合 スタティックなところが多いですよね。すでに書いていること以上に出てこない。
中沢 それは剣術の世界ではだめでしょう。切っ先が止まったりしたらやられる。剣術も芸だから、常に動き変化していくようにして闘っていくわけで、その意味では河合隼雄さんは剣豪でした。僕が立ち合った剣豪では、吉本隆明と並ぶくらい、という印象です。
『中沢新一対談集 惑星の風景』 p198-200
スタティック、静的なものに対して、心はダイナミックな動的なものであるという。ダイナミックに動き変化して、偶然起きた出来事に影響しながら変化していく。自分というものも変化していくということを忘れてはならないな、と思った。極端な話、1年前の自分と今の自分は全然違う自分かもしれない。心とはそういうダイナミズムの中で変化して固定されることなく、変化し続けるものなのかもしれない。もう一度、本に出てきた心の動作について引用して日記をおわる。
心が動き、変化し、流動し、矛盾したものを抱え込みながら動いていって、ときどき均衡をつくり出したりする