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徒然日記2020.09.30

今日は朝起きて昼まで自宅で勤務していたが、昨晩が遅かったせいもあり眠い眠い。昼頃に妻が塩焼きそばを作ってくれて、美味しくて元気が出た!さて出発だ。かなりタイトに何件も取引先を訪問して、夕方帰宅した。夕食は麻婆丼とスープで美味しくて、ノンアルコールビールで流し込んだ。寝かしつけの後、妻との団らんタイム。妻はご近所の子どもと我が子の関係やママ友との関係などで悩んでいる様子だった。

さて今日の一考であるが。大好きな鈴木大拙と岡村美穂子さんのエピソードから一節引用したい。

大拙と出会った当初、岡村は大拙にこんな質問をした。 

「人が信じられないのです。生きていることが空しいのです」

大拙は一言、「そうか」とうなずき、「手を出してごらん」と言った。大拙は彼女の手を広げながら、

「きれいな手じゃないか、美穂子さん。よく見てごらん。仏の手だぞ」

こう言って大拙は涙を浮かべたと言う。

若き少女の実存的問いに、大拙はこのように答えた。その目にはうっすらと涙が浮かんでいたという。このエピソードを見て、魂のレベルでのやりとりを感じた。近代人は表層のやりとりが多い気がする。このような存在をかけた問いに、大拙のように魂のレベルで答えられるか?自分に問うてみる。こころの古層にアクセスできる能力を身につけていきたい。集合的無意識、無、空、の世界を感じたいのだ。

いささか乱読で申し訳ないが、中沢新一のアースダイバーも読む進めている。今は下町の清澄やら、深川八幡のあたりを読んでいる。八幡と花街、「聖と俗」あるいは「ハレとケ」、「アポロンとデュオニソス」。これらは人間の大事な二つの側面を表すのに最適なのかもしれない。八幡でのお参りと、花街での色遊びが近接した場所で展開される。そして相互に関係している。金比羅山も海民の聖なる神社と、俗なる歌舞伎や富くじが同じ場所で展開されている。お参りした後の、博打や色遊び。聖と俗。この深淵なる欲望のつながりによって、日頃の鬱積されたものを解消するのだ。

さて今日も一日が終わった。江戸は災害が多く、死と隣り合わせだった。死ぬ前に何がしたい?という問いに、聖と俗は答えを出してくれたのかもしれない。現代は死を隠蔽している社会とも言えるが、昔のように死と隣り合わせで、聖と俗を重んずる世界を再起動しても良いのではないかと思う。もし年配の親などを旅行に連れて行くときは、聖だけではなく、俗も体験させてあげるのは如何だろう?そんなことを考えて日記を終わる。

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