人はそれを寂しさと呼ぶ(前編)【feat.ナオト】
爪が甘いと耳にしたところで「ふうん」だが、いざ目の前に突きつけられるとぐうの音も出ない。どこか他人事だと根拠もなしにふわふわしていた意識が確かな危機感を持つ。それは仕事による影響も大きい。
以前少しだけ触れたが、最近新たに始めた仕事は、Drの横で一切のカルテ作成を担うというものだ。Drが何の病気を候補にあげて、何を除外したいのか、先回りして入力していくのだが、予期せぬ急転換が多々ある。
「粉薬がいい」「1日2回で処方してほしい」「貼り薬はかぶれる」
診察終了間際にこそ、そんな声は上がるものだから、次のカルテに向かおうとしていた脳みそは途端にパニックを起こす。急いで入力し直すが、もうDrは次の患者さんを呼び入れている。油断大敵とはまさにこのこと。一瞬たりとも気が抜けない。
最後とは終わりの終わり、鉤括弧を閉じるまでを指す。どうやら私には「まだ閉じていないのに句読点だけ打って気を抜いてしまう癖」があるようだ。テニスに置き換えるなら「打ったボールを見てる」入ったかどうかなんて、もうどうにもできない。だから大事なのは次の動き。打ったら戻るが一連。それを当たり前にやっている人達がいる。そんな人達と
類友になりたい。見合わないなら努力するから。養分を。「そこ」に向かうための力を。
チャンスなんてそう何度も訪れない。とにかくその場その場が勝負。ここに常日頃どれだけの意識で向き合っているかが出る。同様に、どんな人と打っているかで、本物が現れた時の立ち振る舞いが変わる。日頃から本物と接していれば、本物が現れようと動じずに済む。
ナオトが現れた。前回から1ヶ月経っていない。その前は半年近く現れなかったというのに。エサは、紛れもないひここだ。楽しそうにしていたラリー。男はひここ目当てにやってきたに違いなかった。ただ、神様のいたずらか、そんな時に限って本命不在。しかしだからと言って「なあんだつまんね」と来なくなってしまうのでは困る。そこでレアキャラ相手に「モンハンしようぜ!」とテンションぶち上げたのが一介の30代女子(あ、すいません。いい加減女「子」とか恥ずかしくないのかという問いは受け付けない方針です)そんなうれしくてうれしくて震えるコバンザメポケモンは、この日5人という少人数で、多めにこのバケモノとキャッキャウフフな殺し合いができることに、既に脳汁ブシャーとなっていた。
ナオトの打球は着弾点が深く、ネットを越える最高到達点ぐらいの高さまでバウンドする。元々弾道自体そこまで高くないため、どちらかというと横に伸びてくるという印象だ。だからストロークの性質はレッド似で、加えてサーブの縦回転はひここに近い。一方で、2人と違うのはレッドとひここが「赤」に対して「青い炎」を感じさせること。大方冷静で、精神的に安定しているように見える。逆を言うと熱くなれるものを探しているようにも見えた。テニス自体は好きだけれど、いつだってどこか物足りなさそうで、それは、その姿は、まるでレッドだった。
ぶっちぎって上手い人に付きまとう孤独。テニスは個人技で「できて」しまうから尚更、理解し合えず孤立しやすい。私自身、ぶっちぎって上手くなった経験はないけれど、コートを空けられた時の気持ちくらいは理解できる。ただテニスがしたいだけ、それが途方もない望みのように思えたこと。
だからか上手い人程腰が低い。今まで自負故だと思っていたその振る舞いは、そうばかりでもないのかもしれない。相応の相手がいてくれる、ただそのことに対しての感謝から、どこまでも謙虚になる。きちんと自分の非を認める。見慣れているから当たり前に思うが、世の中にきちんと謝れる人がどれだけいるだろう。勿論これは男性に限った話ではない。
ただ、そんな自身の主義は、基本試合中謝らない。いや、語弊があるな。正確には「100%ではないが、なるべく謝らないように気をつけている」それは、ただでさえ女性という性質上許されやすいのに、そこに乗っかって同じ失敗を繰り返さないようにするためと、謝ることで「自ら発した言葉が自身の動きに影響する可能性」を排除するためだ。許されるつもりはない。重んじるは結果。そうして極力心を動かさないための一手段として「非礼」を選んでいる。
だから別に相手が同じタイプであっても気にしないし、一方で彼らは徹頭徹尾自分に責任があると思っているため、(内心はさておき)イチイチ私の非礼に目くじらを立てることはない。この辺りを踏まえても、私は彼らより圧倒的イージーモードで同じコートに立っていると思う。さて、話を戻す。
この男のいい所は、以前から言っているが「容赦のない所」だ。同じコートに立つ以上、手加減は非礼に当たると考えることができるのだろう。一般に、女性相手に、意識的にか無意識にか手加減しがちな男性は多い。何様という話ではあるが、実際の所、本当にそれだけの力量がある人はほとんどいない。途中から慌ててエンジン切り替えた所で、想定より低いところにその天辺が見えると、こっちが冷める。だからきちんと打ち合えて、さらに調整までできる男性は、どうだろう。実際に打ち合った中では、残念ながら今の所1人しか知らない。
だからこそラリーでコミュニケーションが取れて、尚かつ高いレベルで完全に打ち殺しにかかってくるこの男は、私にとって非常にありがたい存在だった。上から目線にさせない存在こそ、私の求めるものだった。
例えば「やさしい」と言った時、そのやさしさは誰のためのものか。目を凝らせばそれは巡り巡ってその人自身がためのやさしさだったと気づくこともあるだろう。責められたくないから責めない。「ドンマイ」と声をかけるのは、その人自身がミスをした時そう声をかけて欲しいからではないと、どうして言える。だから私は黙って定位置に戻る人を好ましく思う。
人は失敗を犯す。大事なのはそこからどうするか。どう自分を立て直すか。それは自分を律する力。12×11メートル。この開放的なコートに、精神的に閉じ込められた2人が、どうバランスをとるか。
そう。大事なのはミスをする前提に立たないこと。「悲観主義は自然なもの、楽観主義は意識的なもの」とどこかで聞いたな。己は狩る側であると自己暗示をかけること。力ある相手に上手くやろうとしないこと。時に正面から喧嘩を売ること。まずは相手の想定から飛び出すこと。展開はそこから始める。
敵だろうと味方だろうと、バケモノは相手を選ばず圧してくる。味方前衛、アドサイドにナオト。サーブは私から。2本のサービスエースからのラリー。サービスラインとベースラインの間に落ちる弾道の浮き球に、ナオトが下がる。ああ届くな、と判断した私はカバーの意識を捨てて前に出る。返球したナオトも打った流れで前に出る。
あ、と思う。
「その瞬間」は突然訪れた。全てがスローモーションになる。
前に出るナオトが、サービスラインでスプリットステップを踏む時、自分の足元でも同じ音がした。完全に揃う。
それはまるで扉を閉めるかのような感覚。
それは、リターンの時のように「限定したエリアへの攻撃」に対してとは違い、コート全域を守備する意識に切り替えた時とも違って、それは、
完全にコートを塞いだ音。その圧倒的全能感。どこに打たれても、もう抜かれない。
返球は私のフォア。ストレートで相手のバック側に。浮き球を同じコースへ叩き込む。私のボレーは相当いい形で取らせてもらえないと一発では決まらない。それは分かりきっているから、自分で処理する。ポイントをとって振り返ると、「ナイショッ」とナオトが満面の笑みを見せた。驚く。半年前、お互い「げ」と思いながら組んだ時のこと。だからこそ余計にその無防備な表情に動揺した。サーブ&ボレーで決まれば前衛にも花を持たせることができたのだが、いかんせんそうばかりはいかなくて。
男に焦りはない。本人「その時」は来ると知っているからだ。ボレーを嫌わない。けれどもストロークを好む男は、その後楽しそうにラリーをするとゲームを終えた。終始淡々としていた。「容赦のない男」は、代わりに区別しない。私との間に線引きをしない。だから変に力まずに自然体でテニスをする。それがとても心地よかった。
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