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ほうれん草が食べたくて【テニス】


 二束もりっと消えたことがある。食べるという感覚すらなく、本当に気づいたら無くなってて。アレ怖いね。え、知りませんけどって目の前に空の皿があって言うからね。口の端に食べカスつけて必死で首振ってるちびっこの成れの果てだよ。
 そんな風に、人は身体に不足しがちな栄養素を含むものを無意識に欲する模様。取り込むことでバランスを補う。
 
 自分を信じることがいちばん難しい。そこには信じるに値するだけの根拠が必要となる。
 思い出したのはさつきちゃん。踏み込んでフルスイングでフォアバック。何度も何度も繰り返されてきたそれは、打ち出し方向が正しく、真後ろから叩かれたボールが空気を切り裂くようにして飛んでくる。あの時向き合えなかったものと初めて向き合う。
 
 顔のすぐ傍を打球が抜けた。その感覚を知っている。
 後衛にとって前衛は的だ。その高さを基準にすればアウトすることはない。対戦で使われる機会の少なさに、久しく忘れていた。
 例えば本を読むこととテニスをすること。大きく違うのは求められる情報処理スピード。咀嚼を経由することと、反射を求められること。
 深さの話をすれば一見読書の方が深いように思えるが、それだって浅いものの積み重ねと言えなくもない。とにかくオンタイムで起こったことに対してどう動くかが求められる点で、この競技に言い訳はきかない。そういう意味ではベースは皆一緒なのだ。そう。
 だから求められる。結果を。子供だとか大人だとか、男性だとか女性だとか、若いとか年配だとか。いろんな違いがある中で同じコートに立つ。思い出すのは鈴木貴男(敬称略)。若い選手と正面からやり合う。都度調整をかけ、都度戦い方を変え。相手に合わせたフォーマットを用意する。結果がどうであれ、見習うべきはその姿勢。背中を見せ続けること。
 
 本当に無意識だった。空の皿を前に「えっ」と目を瞬いている一般人Aは、指摘されない以上気付けずにいた。女性だからと手加減しないで欲しいと思っていたこと。相手に求めていたことを自分ができていなかったという事実。
 勝つための手段としてなら構わない。けれど「張り合わない」と「斜に構える」は違う。同じ高さに並び立てないというように、どこかで緩衝材を求めるきらいがあった。本気で打ち込んでくる中学生に対して、正面からやり合うのを躊躇った。それに気づいたのが顔のすぐ傍を抜けたストレート。心技体の揃った見事な「一本」は、そんな余裕に冷水を浴びせるかのようだった。
 
 できたかできなかったか。
 考えてみれば受験だって部活の大会だってそうじゃないか。シビアな中で戦ってる。その温度でこの競技と向き合っている子たちが「それなり」な訳がない。彼女たちには彼女たちのプライドがあり、勝てば喜び、負ければ悔しい。全てはしっかり向き合った結果生まれるもの。そうして今の自分に何ができるか。
 大きく深呼吸。
 波立つ心と向き合う。だってやってきたじゃないか。何度も何度もぶち折られて、その都度真っ直ぐ向き合ってきた。大事なのはじゃあどうするか。選択肢を用意し、自ら選ぶこと。
 さつきちゃんを思い出す。女子学生は群れる。どうする? どうする? と相談する様が、さつきちゃんと当時いた子に重なった。己の弱さ故、あの時向き合えなかったもの。どこか言い訳を残して、逃げ道を作って、ちゃんと自分の立場で見ることができなかったもの。
 
 さつきちゃんは私よりも上手かった。先輩ヅラするしかなかった。やっとその事実を受け入れる。それは私が劇的に変わったからという訳じゃない。「それ」と真っ直ぐ向き合おうと思えるようになったから。今まで積んできたものと、恐れ多くも受け取ってきた敬意があるから、今ある足元を踏みしめられる。
 腰を低く。向き合うべきは目の前の打球。
 そうしてみるみる不足が補われていく。
 
 いつだったか挑戦者が欲しいと思うことがあった。
 でも本来挑戦者なんて立場はきっとなくて、たぶん貴男も自分のことを挑戦者と呼ぶ。杉山愛はこの歳になってサーブを改良しているというから驚きだ。
 
 線引きなんてないと言うからには自分の輪郭を常に正確に把握し、不足を補い、武器を磨き続ける、それ以外にない。数打つことはバカにならない。結局数打ったものが全てにも思えてくる。「今の自分」。サーブの好調は続かない。だったらどうするか。そうして同じ高さの者が同じコートに立ち続ける。確かに学生の頃にはランキング戦なるものがあった。団体戦に出られる出られないがあった。それを忘れていただけだった。

 大きく深呼吸。


 
 やれんのか? 根拠は?
 


 ネットを見据える。腰を落とす相手を見据える。
 

 オメエがいちばん分かってんじゃねえか。
 オラ、いくぞじゃじゃ虎。







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