カモフラージュ(2/3)【feat.メガネくん】
「絶対アウトでしたよね?」
形式練習で苦笑いしながら頷いたのは、彼とペアを組んでいる男性。
メガネくんはしばしばストイックなジャッジをする。相手からは見えない所も、味方だとオンラインかアウトか分かる。確実にアウトだと思って肩の力を抜いても、ラリーを続けていることがあるから注意が必要だ。でもあえて本人に「今のアウトですよね」と言わないのは、言えないからではない。そのストイックさが嫌いではないからだ。
人よりボールひとつ分広いコートを守る。ベースラインでの打ち合いを好む男は、その分かかる負荷も分かっていての動きをする。それは純粋にすごいと思ったし、頼まれてもいないのに「しょうがないから付き合ってやるよ」とも思った。もう一人よく動く足が必要だろう、と。
しかしそんな思いとは裏腹に、彼の打球の安定感に比べたら、私はミス一つに動揺してしまうチキンで、女性の先輩がふつくしいスマッシュを決めるたび「ああ、この人の不足を補えるのはこういう人なんだろうなぁ」と卑屈になった。時にそれが悔しくて、先輩は何も悪くないのに態度に出てしまうこともあった。
同情を買うことはできた。わがままを言えば、甘いコーチはメガネくんと組ませてくれただろうし、彼も不本意でも断らなかっただろう。でもそれではダメなのだ。私が欲しいのはそんなものではない。
気を遣ってとか、仕方なくとかじゃない。
君と組みたい、と思って欲しかった。私がこの人と一緒に戦いたいと思ったように。そのために一度、メガネくんのいるコートを離れた。
「お久しぶりです」
3ヶ月ぶりに顔を合わせる。ハッとしてはにかんだメガネくんは、例の通りペコリと頭を下げるとそのままストレッチに戻った。
メガネくんは練習前に準備体操の時間がちゃんと設けられているにも関わらず、開始10分以上前からストレッチをしている。だから自分がコートに行った時姿が見えないというのは、欠席に違いなかった。
メガネくんは年中鼻をズビズビさせている。だからコート脇のベンチに向かう時、片手に水筒、片手にラケットと、その上にタオルとポケットティッシュを乗せていく。ずっとかぶっていた帽子を、ある年明けから外していて、指摘した所「心機一転と思って」と返ってきた。そうなんだと笑いながら「この寒いのに?」と返す。
一瞬の間。
「あ」と言わせて会話終了。もう本当に、コミュ障は私だ。
メガネくんは。
いつしか私を避けなくなっていた。
単純に慣れたのだろう。とは言っても相変わらず話かければきょどるし、一人称が「ボク」になったり「ワタシ」になったりする。不安定極まりないコミュニケーション技術は、けれどもコート上では反比例するように安定したストロークを繰り返した。
今日はどんな気分?
聞こえるはずのない声が聞こえる。
こっちが打ち出すボールに合わせてボールが返ってくる。
早い弾道のもの。山なりのもの。打ち合いたいのか続けたいのか。
いずれにせよ3球交代。打ち合うにしてもネットにかけない前提だった。ネットにさえかけなければ、お互い対応できた。
いつだったかぴたりとハマったラリーに、次のメニューに移れずにいる他のメンバーを差し置いて打ち続けていたことがある。気恥ずかしさのあまり、呆れ顔のコーチに「止めてくれなきゃ終わりませんよ」と言うと、そのままサイドを移るよう指示された。
高い弾道。打ち返す。
このラリーは終わらない。この時は確かにそう思えた。のに。
どこからおかしくなってしまったのだろう。
初めてダブルスを組んだ時。女性の先輩がメガネくんと組んだ時コーチに「女の顔になってるぞー」と冷やかされているのを聞いた時。短いやりとりの中ではにかむようになった時。そのどれもが思い当たる。ならば時系列で最古に当たる時からに違いない。
ラリーが続かなくなる。あれだけ安定していたやりとりが、いつしか凡庸で、ありふれたものに成り下がる。3球制限。失敗したくないあまりにぎこちなくなる動き。一緒にテニスをするのが楽しいと思って欲しくて、変に力んで、結果繰り返すダブルフォルト。テニスではなくその人を見て、極限まで狭くなる視野。
ある日のラリー、メガネくんはボールの弾道をことさら引き上げた。それは、その高さはもはやロブだった。
低い弾道にして返す。けれども打ち返されるのは高い弾道のもの。
いつだって鏡のようにボールを返し続けていたその人が、あえて打球を変化させる。
低いもの、高いもの。3本も行き交えば気付く。
メガネくんはおどおどしているから分かりづらいけど、芯が強い。
不可侵の領域があって、それは「絶対アウトなのにイン判定をして続けるラリー」や「10分以上前からやるストレッチ」のように深く根付くもの。メガネくんは
この時初めて自分に合わせろと主張した。
お前はネットにかけるから、ネットにさえかけなければラリーは続くから。
弾道を上げる。それは意図せず息をつける間を生んだ。
ロブは、呼吸を整える。体勢を整える。自分をニュートラルに戻す。
がむしゃらに、崩れたフォームで、合わない打点であくせく動くよりずっと綺麗に打てる。視野が広がる。
ロブは決して楽なショットじゃない。弾道の高さ、回転量。
前衛を想定した、きちんと独立した一球種。
思い出す。
そもそもテニスがしたいと思ったのは、ラリーがしたかったからだ。
でも向かった先にいたのは、信じられない位上手な人達で、だから自分もこれだけ打てると必死で主張しなければ、ここに居させてもらえない気がして怯えていた。本当はこんな風に、放課後のおしゃべりのような、いつまでも続くようなやりとりをしたかった。ただそれだけだった。
思い出す。
学生の頃、失敗するのが怖くて、相方に迷惑をかけないようにロブだけをあげていた時期があった。ロブだけは、だから誰よりも数多く打ってきた。成長段階で身体の芯まで染み付いたショットだった。
続くラリー。
メガネくんは容赦ない。ベースラインギリギリに落としてくる。
前まではサービスラインとベースラインの間に落としていたのに。あれは相手の打ちやすさを優先させていたのかもしれない。
一切の気遣いのなさは、一切の手加減の無さ。すなわちその人自身だった。
輪郭。
ようやくその輪郭が見えてくる。
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